5月2日、行く春の酒をたまはる陣屋哉

 今日は5月2日、月曜日なので新町の事務所へ仕事の整理に行くことにしました。6日の事務局会議の準備です。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言299です。
 生存的小品文,必须是匕首,是投枪,能和读者一同杀出一条生存的血路的东西;但自然,它也能给人愉快和休息,然而这并不是”小摆设”,更不是抚慰和麻痹,它给人的愉快和休息是休养,是劳作和战斗之前的准备。
 Shēngcún de xiǎopǐnwén, bìxū shì bǐshǒu, shì tóuqiāng, néng hé dúzhě yītóng shā chū yītiáo shēngcún de xuèlù de dōngxī; dàn zìrán, tā yě néng jǐ rén yúkuài hé xiūxí, rán'ér zhè bìng bùshì” xiǎo bǎishè”, gèng bùshì fǔwèi hé mábì, tā jǐ rén de yúkuài hé xiūxí shì xiūyǎng, shì láozuò hé zhàn dǒu zhīqián de zhǔnbèi. 
 「生き残る小品文は、必ずや読者と共に一条の生存の血路を突破することのできる、匕首であり、投槍でなければならない。しかし、むろんそれは人に愉快と休息を与えることもできる。とはいえ、これは決して『小擺設』ではないし、慰撫や麻痺では尚更ない。それが人にあたえる愉快と休息は、休養であり、労働と戦闘の前の準備である。」

 今日の論語一日一章は、論語19-12(論語巻第十 子張第十九篇 12章)です。
 子游曰、子夏之門人小子、當洒掃應對進退則可矣、抑末也、本之則無、如之何、子夏聞之曰、噫、言游過矣、君子之道、孰先傳焉、執後倦焉、譬諸草木區以別矣、君子之道、焉可誣也、有始有卒者、其唯聖人乎、
 Zǐ yóu yuē, zi xià zhī ménrén xiǎozi, dāng sǎ sǎo yìngduì jìntuì zé kě yǐ, yì mò yě, běn zhī zé wú, rú zhī hé, zi xià wén zhī yuē, yī, yán yóuguò yǐ, jūnzǐ zhī dào, shú xiān chuán yān, shu hòu juàn yān, pì zhū cǎomù qū yǐ bié yǐ, jūnzǐ zhī dào, yān kě wū yě, yǒu shǐ yǒu zú zhě, qí wéi shèngrén hū,
 (子游曰,子夏之门人小子,当洒扫应对进退则可矣,抑末也,本之则无,如之何,子夏问之曰,噫,言游过矣,君子之道,孰先传焉,孰后倦焉,譬诸草木区以别矣,君子之道,焉可诬也,有始有卒者,其唯聖人乎,)
 子游が曰わく、子夏の門人小子、洒掃応対進退に当たりては則ち可なり。抑々末なり。これを本づくれば則ち無し。これを如何。子夏これを聞きて曰わく、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先きにし伝え、孰れをか後にし倦まん。諸れを草木の区して以て別あるに譬う。君子の道は焉んぞ誣うべけんや。始め有り卒わり有る者は、其れ唯だ聖人か。」
子游がいった、「子夏の門下の若者たちは掃除や客の応対や動作については結構だが、つまりは末のことだ。根本はといえば何もない。どんなものだろう。」子夏はそれを聞くといった、「ああ、言游(子夏)はまちがっている。君子の道はどれを先き立てて伝えるとか、どれを後まわしにして怠るとかいうものではない。(門人の力に従って順序よく教えるまでだ。ちょうど草木の種類によって育て方が違うようなものである。君子の道は力の無いものにむり強いしたりしてごまかせるものだろうか。始めもあれば終わりもある(何もかも備わる)というのは、まあ聖人だけだろうね。(門人の若者に求めることじゃない。)。」と。)