5月16日、夏嵐机上の白紙飛び尽す

 今日は5月16日、月曜日です。今日も東京日本橋浜町で朝を迎えました。論語一日一章は、今日から第二十篇で、あと五日で終わりになりました。よく読み進めてきたものだと思います。魯迅箴言もあと50日となりました。こちらもよく頑張りました。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言313です。
 创作难,就是给人起一个称号或诨名也不易。假使有谁能起颠扑不破的诨名的罢,那么,他如作评论,一定也是严肃正确的批评家,倘弄创作,一定也是深刻博大的作者。
 Chuàngzuò nàn, jiùshì jǐ rén qǐ yīgè chēnghào huò hùn míng yě bùyì. Jiǎshǐ yǒu shuí néng qǐ diānpūbùpò dì hùn míng de bà, nàme, tā rú zuò pínglùn, yīdìng yěshì yánsù zhèngquè de pīpíng jiā, tǎng nòng chuàngzuò, yīdìng yěshì shēnkè bódà de zuòzhě.
 「創作は難しいものである。人に称号や渾名をつけるのでさえ容易ではない。たとえば誰か、ぐうの音も出ないような渾名をつけることのできる人がいるとしたら、彼が評論すれば、必ず厳しく的確な批評家になるだろうし、なお創作を手がければ、必ず豊かで味わい深い作者になるだろう。…」

 今日の論語一日一章は、論語20-1(論語巻第十 堯曰第二十 1章)です。
 堯曰、咨爾舜、天之暦數在爾躬、允執其中、四海困窮、天禄永終、舜亦以命禹、曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝、有罪不敢赦、帝臣不蔽、簡在帝心、朕躬有罪、無以萬方、萬方有罪、罪在朕躬、周有大賚、善人是富、雖有周親、不如仁人、百姓有過、在予一人、
 Yáo yuē, zī ěr shùn, tiān zhī lì shù zài ěr gōng, yǔn zhí qízhōng, sìhǎi kùnqióng, tiān lù yǒng zhōng, shùn yì yǐ mìng yǔ, yuē, yǔ xiǎozi lǚ, gǎn yòng xuán mǔ, gǎn zhāo gào yú huáng huánghòu dì, yǒuzuì bù gǎn shè, dì chén bù bì, jiǎn zài dì xīn, zhèn gōng yǒuzuì, wú yǐ wàn fāng, wàn fāng yǒuzuì, zuì zài zhèn gōng, zhōu yǒu dà lài, shànrén shì fù, suī yǒu zhōu qīn, bùrú rén rén, bǎixìng yǒuguò, zài yǔ yīrén,
 (尧曰,咨尔舜,天之历数在尔躬,允执其中,四海困穷,天录永终,舜亦以命禹,曰,予小子履,敢用玄牡,敢昭告于皇皇后帝,有罪不敢赦,帝臣不蔽,简在帝心,朕躬有罪,无以万有罪,罪在朕躬,周有大赉,善人是富,虽有周亲,不如仁人,百姓有过,在予一人,)
 「堯の曰わく、咨、爾舜、天の暦数、爾の躬に在り。允に其の中を執れ。四海困窮。天禄永く終えん。舜曰わく、予れ小子履、敢えて玄牡を用て、敢えて昭かに皇皇后帝に告す。罪あるは敢えて赦さず、帝臣蔽さず、簡ぶこと帝の心に在り。朕が躬罪あらば、万方を以てすること無けん。万方罪あらば、罪は朕が躬に在らん。周に大賚あり、善人是れ富む。周親ありと雖ども仁人に如かず。百姓過ちあらば予れ一人に在らん、」
 (堯がいった、「ああ、なんじ舜よ。天のめぐる運命はなんじの身にあり。まことにほどよき中ほどを守れ。四海は苦しめり。天の恵みの永久につづかんことを。」舜もまたそのことばを禹に告げた。湯はいった、「われふつつかなる履、ここに黒の牡牛をお供えし、はっきりと偉大なる上帝に申し上げよう。罪あるものは、勝手には許しませぬ。上帝の臣下は蔽うことなく、みこころのままに選びましょう。わが身に罪のあるときは万民をわずらわしたもうな。万民に罪のあるときは、罪をわが身あらしめたまえ。」周には天のたまものあり、善人の豊かなことだ。「濃い親戚があっても仁の人には及ばぬ。民草にあやまちがあれば、責めはわが身の上にある。」)