7月22日、うれしさに涼しさに須磨の恋しさに

 今日は7月22日、誕生日から一夜明けました。68歳の実感が徐々に広がってきました。外は雨が降っています。雷の音で目覚めました。

 今日の魯迅箴言365日は箴言112です。
 夫进乎”持中”的态度大概有二;一者”非彼即此”,二者”可彼可此”也。前者是无主意,不盲从,不附势,或者别有独特的见解;……后者则是”骑墙”,或是极巧妙的”随凤倒”了,然而在中国最得法,所以中国人的”持中”大概是这个。倘改篡了旧对联来说明,就该是;”似战,似和,似守;似死,似降,似走。”
 Fū jìn hū” chí zhōng” de tàidù dàgài yǒu èr; yī zhě” fēi bǐ jí cǐ”, èr zhě” kě bǐ kě cǐ” yě. Qiánzhě shì wú zhǔyì, bù mángcóng, bù fù shì, huòzhě bié yǒu dútè de jiànjiě;……hòu zhě zé shì” qíqiáng”, huò shì jí qiǎomiào de” suí fèng dào”le, rán'ér zài zhōngguó zuì défǎ, suǒyǐ zhōngguó rén de” chí zhōng” dàgài shì zhège. Tǎng gǎi cuànle jiù duìlián lái shuōmíng, jiù gāi shì;” shì zhàn, shì hé, shì shǒu; shì sǐ, shì jiàng, shì zǒu.”
 もともと、「中庸を保つ」ことは大概二つの事である。一つは、彼に非ず、則これである、であり、もう一つは、かれでも可であり、これも可である。前者は主意はなく、盲従でもなく、時勢に流されているのでもない、あるいは特別な見解がある場合もある。後者はすなわち、「風見鶏」であり、巧妙な「風任せ」である。これは中国人の最も得意な方法である。すなわち、中国人の「中庸に持す」とはこのことである。もしも、旧来の解説を書き加えるとすれば、「戦いに似て、和するに似て、守に似て、死するに似て、降りるに似て、進むに似て」である。