影の告別

 今日は、『野草』から「影の告別」を紹介します。
 
 人が睡りにおちて時さえ知らぬとき、影が別れに来て告げることばは――
 
 おれのきらいなものが天国にあれば、行くのがいやだ。おれのきらいなものが地獄にあれば、行くのがいやだ。おれのきらいなものが君たちの未来の黄金世界にあれば、行くのがいやだ。
 だが、君こそおれのきらいなものだ。
 友よ、おれは君について行くのがいやだ。とどまることが。
 おれはいやだ。
 ああ、ああ、おれはいやだ。無にさまようほうがよい。
 
 おれはただの影だ。君に別れて暗黒に沈もう。だが暗黒がおれをのみ込むかもしれぬし、光明がおれを消し去るかもしれない。
 だがおれは明暗の境をさまようのがいやだ。暗黒に沈むほうがよい。
 
 だが結局は、明暗の境をさまようことになろう。黄昏であるか黎明であるかを知らぬままに。おれはかりそめに灰色の手をあげて一杯の酒を飲み干すまねをし、時さえ知らぬとき、ただひとり遠く行こう。
 ああ、ああ、もし黄昏ならばむろん黒夜がおれを沈めるだろう。でなければ白日がおれを消すだろう、もし今が黎明ならば。
 友よ、時は近い。
 おれは無にさまようべく暗黒に向かおう。
 君はなおも贈物をせがむか。捧げるべき何をおれが持とう。ぜひにとあればやはり暗黒と空虚だ。ただ、願わくは、暗黒があるいは君の白日によって消されることを。ただ願わくは、空虚が断じて君の心を満たさぬことを。
 
 おれはこうありたいのだ、友よ――
 おれはただひとり遠く行く。君ばかりでなく、ほかの影さえいない暗黒へ。おれひとりが暗黒に沈められ、かくて世界は完全におれ自身のものだ。 (1924年9月24日)