魯迅箴言日記 2024/02/12 馬ほくほく椿をくぐり桃をぬけ(明治24年、1891年)

 今日は2月12日、月曜日ですが、11日日曜日が建国記念日の祝日と重なったため、振替休日で、三連休の最後です。今日も一日、生活のリズム、机に向かうリズムをつくるために、家で三つの机、正確には四つの机でじっくり作業をするつもりです。

 今日の子規歳時は、「馬ほくほく椿をくぐり桃をぬけ(明治24年、1891年)」です。

 馬ほくほくで、椿の木をくぐり、桃の畑をぬけて歩くさまを描いています。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-43「暴露する者は、」です。

 暴露者揭发种种隐秘,自以为有益于人们,然而无聊的人,为消遣无聊计,是甘于受欺的,否则就更无聊赖。

    所以使戏法长存于天地之间,也所以使暴露幽暗

    不但为欺人者所深恶,

    亦且为被欺者所深恶。

 暴露する者は、種々の秘密をあばいて、自分では人々にとって有益であると思っている。しかし、退屈している人は、退屈しのぎのために、甘んじて騙され、そして自分をだますことに安んじている。そうでないと、いっそう退屈するだろう。暴露する者は、ただ有為の人々の中でのみ有益であり、退屈している人々の中では滅亡するであろう。

 自分を救う道は、いっさいの秘密を知っていても、それを他には見せず、人を騙すことを助け、自ら甘んじて騙されている。退屈した人々を騙し、面白くもない手品がひとつひとつ最後まで繰り返されるのだ。

魯迅箴言日記 2024/02/10 なにがしの忌日ぞけふは冴え返れ(明治29年、1896年)

 今日は2月10日、土曜日。三連休の初日です。8日までの三連続の呑み会の疲れが残っています。今日からの三連休は休養にあてます。それでも今日は、午後2時、町会のカラオケ会。午後4時、遠近両用メガネの受領。携帯電話のチェック。散髪のための床屋登録。

 今日の子規歳時は、「なにがしの忌日ぞけふは冴え返れ(明治29年、1896年)」です。

 冴返るは春の季語。寒さがぶり返すこと。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-41「もしも小家の子なら」です。

 如果是小家子弟,则纵使外面怎样大风雨,也还要勇往直前,拼命挣扎的,

    因为他没有安稳的老老巢可归,只得向前干。

    虽然成家立业之后,他2也许修家谱,造祠堂,俨然以旧家子弟自居,但这究竟是后话。

    惝是旧家子弟呢,为了逞雄,好奇,趋时,吃饭,固然也未必不出门,然而只因为一点小成功,或者一点小挫折,都能够使他立刻退缩。

 もしも、小家の子ならば、どんなに外が嵐であっても、勇敢に前に進み、必死になって奮闘しなければなりません。戻れる安定した古巣がない以上、前に進むしかありません。結婚して、事業をはじめたあとは、家系図を編纂したり、祖先の霊廟を建てたり、あたかも旧家の子孫であるかのように振る舞うかもしれませんが、それは別の話。 

 もしも、旧家の子ならば、もちろん、野心を誇示したり、好奇心を旺盛にしたり、流行を追いかけたり、食べるために外へ出ることはありませんが、小さな成功や小さな挫折だけで、すぐにその事業から手をひいてしまう可能性があるのです。

 

魯迅箴言日記 2024/02/09 手にとれば飯蛸笑ふけしきあり(明治28年、1895年)

 今日は2月8日、木曜日です。今日は英会話(アウガ)、6時からガストで笠島会(木村、石岡夫妻)。源ちゃんラーメンで〆(木村さん)。

 今日の子規歳時は、「手にとれば飯蛸笑ふけしきあり(明治28年、1895年)」です。飯蛸とは、蛸の卵が飯粒のように見えるからつけられた。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-40「いきなり商売の話をしたり」です。

 忽讲买卖,忽讲友情,只要有利于己的,什么方法都肯用,这正是流氓行为的模范标本。

 いきなり商売の話をしたり、いきなり友情のことを話したりするのは、

 ただ自分を利するためのものであり、

 どんな方法をも用いてやる、

 こんなやくざ者の行為は、

 まさに模範的なものなのだ。

魯迅箴言日記 2024/02/08 焼山の大石ころりころりかな(明治29年、1896年)

 今日は2月8日、木曜日です。今日は笠島氏、木村氏、石岡夫妻とガスト飲みの日です。帰り、木村さんと源ちゃんラーメンへ行き、奥様に送って行ってもらいました。

 今日の子規歳時は、「焼山の大石ころりころりかな(明治29年、1896年)」です。ここで、焼山とは、季語の「山焼」のことか。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-39「古今を問わず」です。

 无论古今,凡是没有一定的理论,或主张的变化并无线索可寻,

    而随时拿了各种各派的理论

    来作武器的人,都可以称之为流氓。

 古今を問わず、凡そ一定した理論というものがなく、あるいは、主張の変化にも、

 その根拠がはっきりせず、

 その時、その時で、各種各派の理論をもってきても、

 武器とするようなものは、みなやくざ者といっていいのです。

魯迅箴言日記 2024/02/11 春寒く痰の薬をもらひけり(明治33年、1900年)

 今日は建国記念日の日曜日。三連休の中日。昨日は、町会のこぶし会。眼鏡屋、Yモバイル、床屋で一日が過ぎ、今日は一日、日課、ブログ更新、川柳の勉強、北狄の編輯執筆にあてます。

 今日の子規歳時は、「春寒く痰の薬をもらひけり(明治33年、1900年)」です。糸瓜水は痰の薬。「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」は子規の辞世の句。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-48「私たちは所謂偶像を崇拝する」です。

 我们所认为在崇拜偶像者,

魯迅箴言日記 2024/02/07 網の目や白魚おちる二ツ三ツ(明治27年、1894年)

 今日は2月7日、水曜日です。今日は5時半、野月さんと久しぶりに「樽」。

 今日の子規歳時は、「網の目や白魚おちる二ツ三ツ(明治27年、1894年)」です。これは愛媛の宇和島の白魚漁を詠んだ句かしら。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-38「暗黒の主力が、」です。

 惝使对于黑暗的主力,不置一辞,不发一矢,而但向”弱者”唠叨不已,则纵使他如何义形于色,……

 他其实乃是杀人者的帮凶而已。

 

魯迅箴言日記 2024/02/06 ここぢやあろ家あり梅も咲て居る(明治27年、1894年)

 今日は2月6日、火曜日です。今日は山下さんと武蔵。

 今日の子規歳時は、「ここぢやあろ家あり梅も咲て居る(明治27年、1894年)」です。訪ね人ありの句です。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-37「蜜蜂の針は、」です。

 密蜂的刺,一用即喪失了它自己的生命;

   犬儒的刺,一用则苟延了他自己的生命。

 蜜蜂の針は、一度使えば、自分自身の命を失う。

 犬儒の針は、一度使えば、自分自身の命を延ばす。

ここで、犬儒とは、けんじゅ‐がくは犬儒学派】 キニク学派の別称。キニクはギリシア語で「犬のような」の意のkynikosに基づいた語で、犬のような乞食生活をしたことからの称。