魯迅箴言日記 2024/04/06 汽車に乗て汐干の浜を通りけり(明治32年、1899年)

 今日は4月6日、土曜日です。今朝は4時に起き、日課をやり、ブログの更新をして、柴谷君の家に行きます。PCの修理が終わったとのこと。午後はおかじょうきの句会。そのあと伊那かっぺいさんの出版記念会。4・9反核燃の日の集会もあります。

 今日の子規歳時は、「汽車に乗て汐干の浜を通りけり(明治32年、1899年)」です。

 汽車の窓から、潮干狩りを眺める子規の句です。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-75「だが、実際上」です。

 实际上,中国人向来就没有争到过人的价格,至多不过是奴隶,到现在还奴此,然而下于奴隶的时候,却是数見不鲜的。

 だが、実際上、中国人は昔から、「人間」の価値を受け取ったことがない。たかだか奴隷にすぎなかった。そして、今もって同様である。いや、奴隷以下であった時代も、珍しくなかった。

魯迅箴言日記、2024/04/04 板の間にひちひちはねるさくらだい(明治27年、1894年)

 今日は4月4日、木曜日です。今日は、日課、ブログの更新をして、川柳をつくり、新報会計の整理をします。夕方、升田さんに会い、そのあと英会話です。

 今日の子規歳時は、「板の間にひちひちはねるさくらだい(明治27年、1894年)」です。さくらだいがひちひちはねるというのは新鮮です。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-72「女性の天性のうちには、」です。

 女人的天性中有母性,有女儿性;无妻性。

    妻性是逼成的,只是母性和女儿性的混合。

 女性の天性のうちには、母性と娘性はあるが、妻性はない。

 妻性は逼られてできたものであり、母性と娘性が混ざりあったものにすぎない。

魯迅箴言日記 2024/04/01 たらちねの花見の留守や時計見る(明治35年、1902年)

 今日は4月1日、月曜日です。昨日で棟方志功記念館は閉館。閉めるのは簡単だが、再開するのは簡単ではない。なくなって初めて、志功記念館の存在価値に気づくはずです。しかし、いずれ風化するかもしれません。現在に生きる私たちにとって、志功さんの版画がもたらす力は何ものにも代えがたい財産であると思います。

 今日の子規歳時「たらちねの花見の留守や時計見る(明治35年、1902年)」です。たらちねは母の枕詞。花見にでかけた母の帰りを想う、子規の心情。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-111「いまなにが必要かを問わずともいよい、自分になにができるかを問うことです」。

 不必问现在要什么,只要问自己能做什么。

魯迅箴言日記 2024/03/31 花十日五日は雨にふられけり(明治23年、1890年)

 今日は3月31日、日曜日です。今日は、雪の会の例会。その後、懇親会。

 今日の子規歳時は、「花十日五日は雨にふられけり(明治23年、1890年)」です。

 ふられけりがいいですね。花が咲き始めて10日のうち、5日も雨にふられているなんで、うらめしいです。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-112「人類はお互いに分け隔てることなく、」です。

 人类最好是彼此不隔膜,相关心。

    然而最平正的道路,却只有用文艺来沟通,可惜走条道路的人又少得很。

 人類はお互いに分け隔てることなく、関心を持ち合うのが最もいい。

 しかも、その最も平坦な道は、文芸をもって通じ合うほかないが、

 惜しむらくは、この道を行く人はまた、あまりにも少ない。

 

 

魯迅箴言日記 2024/03/30 山桜仁王の腕はもげてけり(明治26年、1893年)

 今日は3月30日、土曜日です。幸畑第四団地集会所でふれあい教室。昼から、街宣の運転手。5時半から紀文で長島小学校6年7組クラス会。戸嶋・早瀬・柿崎。

 今日の子規歳時は、「山桜仁王の腕はもげてけり(明治26年、1893年)」です。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-50「専門家の話はひとりよがり」です。

 专门家的话多悖的事,还得加一点申说。

    他们的悖,未必悖在讲述他们的专门,是悖在倚专家之名,来论他所专门以外的事。

 専門家の話はひとりよがりだということには、もう少し説明が必要だろう。

 彼らの独善は必ずしも彼らの専門にあるのではなく、専門以外の事まで論ずることである。

 

魯迅箴言日記 2024/03/29 接木する片手に蜂を払ひけり(明治32年、1899年)

 今日は3月29日、金曜日です。朝5時起床。日課を朝食前にやり、ブログの更新。昼に米の精米。午後は、北狄の作業。406号が3時半に完成。夕方、配布。

 今日の子規歳時は、「接木する片手に蜂を払ひけり(明治32年、1899年)」です。

 今日の魯迅箴言は、365-47「戦争の結果も、二つの態度に変える」です。

 战争的结果,也可以变成两种态度;一种是英雄,他見别人死的死伤的伤,只有他健存,自己就觉得怎样了不得,这么那么夸耀战场上的威雄。

    一种是变成反对战争的,希望世界上不要再打仗了。

 戦争の結果も、二つの結果にかえることができます。一つは英雄です。彼はほかのものが死ぬものは死に、負傷するものは負傷するのに、自分だけはカスリ傷一つ負わずピンピンしているのを見て、自分をよっぽどえらい人間だと思い、ああだこうだといって戦場における英雄的行動を自慢する。

 もう一種は戦争反対に変る人で、世界にもう戦争がないように希望する。

魯迅箴言日記 2024/03/28 故郷はいとこの多し桃の花(明治28年、1895年)

 今日は3月28日、木曜日です。昨日27日は、あがさまいから10時に戻り、ブログの更新が終わったのが午前1時半。朝7時半に起き、川柳をつくり、午前中は日課をやって、午後は教室。そのあと、家で新報会計整理と紙誌代の振り込みを郵便局。笹森先生ととり平。8時から、ブログの更新。

 今日の子規歳時は、「故郷はいとこの多し桃の花(明治28年、1895年)」です。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-46「生活に困ったことのある人は、」です。

 从生活窘迫过来的人,一到了有钱,容易变成两种情形;一种是理想世界,替处同一境遇的人着想,便成为人道主义;一种是什么都是自己挣起来,从前的遭遇,使他觉得什么都是冷酷,便流为个人主义。

 生活に困ったことのある人は、金持ちになると簡単に二種類の状態に変化します。一つは理想の世界を同じ境遇の人々のために考えてやろうというもので、人道主義になる。もう一つは、何でも自分で苦労して儲け出したものであり、昔いろんな目に遭ったことが、彼をして何もかもが冷酷に感じられることから、個人主義に陥ってしまう。