論語の「過則勿憚改」について

論語」の学而01篇の8章に以下の章句がある。
 「01-08 子曰。君子不重則不威。學則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。」
 これの読み下し文は以下の通り。
 「子(し)曰(いわ)く、君子(くんし)重(おも)からざれば則(すなわ)ち威(い)あらず。学(まな)べば則(すなわ)ち固(こ)ならず。忠信(ちゅうしん)を主(しゅ)とし、己(おのれ)に如(し)かざる者(もの)を友(とも)とすること無(な)かれ。過(あやま)ちては則(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はば)かること勿(な)かれ。」
 ここで、
 重 … 重々しい。
 威 … 威厳。
 固 … 固陋。がんこ。
 不如己者 … 自分より劣った人。「不如」は「~ニシカズ」と読み、「~に及ばない」と訳す。
 過 … 過ち。過失。
 憚 … 躊躇する。
 過則勿憚改 … 解釈については、故事成語「過ちては改むるに憚ること勿かれ」(過失を犯したと気が付いたら、体裁や体面を気にすることなく、すぐに改めよという戒め。)を参照。
 ここの金谷治訳(岩波文庫)はこうである。
(先生がいわれた、「君子はおもおもしくなければ威厳がない。学問すれば頑固でなくなる[まごころの徳である]忠と信とを第一にして、自分より劣ったものを友だちにはするな。あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。)
 論語のこの章で一番大切なのは、最後の「過則勿憚改」である。同じように、衛霊公15篇の第30章に「子曰、過而不改、是謂過矣」(先生がいわれた、「過ちをしても改めない、これを本当の過ちというのだ。)と弟子たちを戒めている。
 このように孔子はふだんから、弟子たちに過ちを犯したさいのふるまいについてよほどに注意していたからであろう、と思うのは中野孝次ばかりではない。
 中野孝次は、「過ちとは何か。倫理的な規範の失われている現代日本では、過ちもまた多岐多様にならざるを得ない」というが、この文章を読んで思い出したのは、福島原発事故のことだった。
 中野はいう、「過ちが悪と化するのは、過ったと知りながら隠蔽したり、いいつくろったり、とにかく過ったことを認め、それを天下に公表しないこと、それをこそ本当の過ちというのだと孔子は言うのだ。我々の日常を見回してみても、たしかにその通りである。」と。
 3月11日の大震災と電源喪失によって大事故にいたったときに連日、朝から夜までNHKに出づっぱりであったKという東大教授のことを思い出すのである。
 彼は過ちを認めるどころか、相変わらず東大教授のまま、政府の審議会に学界の重鎮として登場しているのである。科学者の良心のひとかけらもない人たちが、過ちと嘘と隠蔽で塗り固めた原子力ムラにいまだに巣食っているのだ。
 孔子がみたら何というであろうか。魯迅のあざけりの声が聞こえてきそうだ。