田中慎弥「共喰い」を読む

 おとといの朝、鶯が鳴いているので、目が醒めました。5時45分でした。隣の庭で鳴いているのでした。鶯は昨日も、今日も鳴きません。どうしたのでしょう。気になります。そんなことを考えながら、天気が好い今朝は二階の書斎で本を読むことにしました。そしたら、午前11時にまた鶯がやってきて、窓から鳴き声が聞こえてきました。嬉しくなりました。
 芥川賞作家の本を読むのは久しぶりです。今話題の本だけに、県立図書館に予約したときに22番目の予約者ということでした。
 一読して、親しみを感じました。十代の後半から二十代初めの頃の感覚が甦ってきたのです。あの頃の私もこの作品の主人公のように精気が漲り、凶暴でした。この作者は、あと20年後、30年後にどんな作品を書くのでしょうか。それに興味を覚え、想像力を掻き立てられました。この凶暴さを主人公の父のように持続させられたら、すごい作家になると思いました。
 ドストエフスキーを想起させた冒頭とともに、、ちょっと気に入った箇所を書き抜きしてみます。

 昭和六十三年の七月、十七歳の誕生日を迎えた篠垣遠馬はその日の授業が終わってから、自宅には戻らず、一つ年上で別の高校に通う会田千種の家に直行した。といっても二人とも、川辺と呼ばれる同じ地域に住んでいて、家は歩いて三分も離れていない。
 国道でバスを降り、古い家屋や雑居ビルに挟まれた細い道を抜けると幅が十メートルほどの川にぶつかる。流れに沿って歩いてゆく。潮が引いている。浅い水を透かして黄土色の川底が見える。形も大きさもまちまちの石、もし乗れたとしても永久に右に曲がることしか出来そうにない壊れた自転車、折れた骨を檣のように水面から突き出している黒い傘、錆びてほとんど形がなくなっているのに朱色の持ち手だけは鮮やかなままのブリキのバケツ、板塀の切れ端、砂を呑み込んで膨らんだビニール袋、などが川を埋めている。鯔の子が塊になって泳いでいる。岸の泥には大きな蜘蛛の群れのように鳥の足跡が散らばり、嘴で餌を探したらしい部分には黒いへどろが見える。川に沈んでいるごみや岸辺には、緑色の藻がへばりついている。淡水のものではなく、潮の証拠だった。川の中にあるあらゆるものは、満ちてくる海と混じり合い、引き潮に運ばれずに残ったものだけが川を形作り、またやってくる海を待っている。
 においが来る。このあたりはまだ下水道の整備が完全ではなく、家々の便器は一応水洗式だったが、汚水そのものは川へ流れ込むようになっている。家の配水管を下水の本管へつなぐ費用のいくらかは個人負担にした上で、来年の春頃までには工事が行われることになっていることから、夏場の激しいにおいも今年が最後だ。
 こんなにおいで、しかもあんな父のいる家なのに、このにおいを嗅ぐと遠馬はいつも、帰ってきたという気になる。嬉しいのでも苦しいのでもない、川を川だと改めて思うことも、橋を橋だと思うこともないのと同じ、いつもの感覚だ。ただ、いつもの感じだな、と思ったのは今日が初めてのような気がした。
 淀んでいるにおいを掻き分けながらでないと歩けない。満潮に向かう時なら海のにおいが加わった空気が揺れ動きながら、しかも粘つく筈だ。道に面した古い倉庫の雨樋につながれている赤くて痩せた犬が、鎖の長さの分だけ走ってきて吠える。蚊柱の横を通り過ぎる。

 死んだように女が動いていないアパートの壁に、熊蝉が一匹張りついている。鳴いてはいない。自分が眠っているすぐ傍に蝉がいたのだと、女がこの先、知ることはない。自分もわざわざ教えてやろうとは思わない。まるで蝉が止まっていないのと同じようなものだ。すると、女と蝉を同時に見ていることじたいも、嘘だという気がしてくる。なのに赤犬は確かに吠えている。牙が白くて小さかった。

 冒頭を読んだだけでも、芥川賞は決まりだと思いました。大いに勉強になりました。