中国の古代史

 今日は、中国の歴史を振り返ってみます。中国の古代史では、紀元前21世紀の夏にはじまり、殷が紀元前16世紀に誕生したようです。その後、紀元前11世紀に紂王の代で殷は亡び、周の時代になったのでした。
 文王の子の武王が殷を滅ぼして周を建国しましたが、前771年にいったん滅亡しますが、成周から東に遷都して東周となったのでした。このときから、春秋戦国時代が始まったとされています。
 孔子はまさにこの春秋時代に魯にうまれ、仕官をもとめて春秋列国を回るのです。最初に訪れたのが、斉でした。

夏;(呉音はゲ)中国の王朝名・国名。殷(イン)の前にあった中国最古の王朝。伝説では、禹が舜の禅(ユズリ)を受けて建国。都は安邑(山西省)など。紀元前二一~一六世紀頃、一四代、一七王という。第一七代桀(ケツ)に至り、殷の湯王に滅ぼされた。最近、考古学研究の進展により夏王朝の存在が主張されています。

禹;中国古代伝説上の聖王。夏(カ)の始祖。鯀(コン)の子で、尭の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分ち、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位につき、安邑(山西省)に都し、国を夏と号した。洪範九疇を定める。大禹。夏禹。夏伯。

舜;中国の古代説話に見える五帝の一。(センギヨク)の六世の孫。虞の人で、有虞氏という。父は舜の異母弟の象を愛し、常に舜を殺そうと計ったが、舜はよく両親に孝を尽した。尭の知遇を得て摂政となり、その二女娥皇と女英を妃とした。尭の没後、帝位につき、天下は大いに治まった。即位後一八年、南へ視察し、蒼梧の野に崩。大舜。虞舜。
 ここで、中国古代説話の五帝にも諸説があります。代表的なものは「黄帝・顓頊・嚳・堯・舜」と「少昊・顓頊・嚳・堯・舜」です。いずれにも、夏の堯と舜は入っています。

殷;中国の古代王朝の一。「商」と自称。史記の殷本紀によれば、成湯王が夏(カ)を滅ぼして創始(前一六世紀頃)。三○代、紂(チユウ)王に至って周の武王に滅ぼされた(前一一世紀頃)。殷墟の発掘と甲骨文の研究の進歩によって、その歴史も明確になってきた。

周;中国の古代王朝の一。姓は姫。殷(イン)に朝貢していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた。第一二代幽王までは鎬京(コウケイ)に都したが、前七七一年犬戎の侵略をうけていったん滅亡。第一三代平王は東遷し、翌年即位、都を成周(今の洛陽付近)に移した。東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代にあたる)という。三七代で滅亡。(前1100頃~前256)

春秋時代;(「春秋」に記載された時代の意) 中国で、前七七○年周の東遷から前四○三年晋の大夫韓・魏・趙の三氏の独立に至る約三六○年間。周室は次第に衰えてその権威を失い、諸侯は互いに併呑を事として戦争が絶えず、弱肉強食の状を呈した。「春秋」の記事は前七二二~前四八一年に限られるが、その前後を含めていう。

春秋十二列国;春秋時代の十二の国、すなわち魯・衛・晋・鄭・曹・蔡・燕・斉・陳・宋・楚・秦。

太公望;ー?紊寮胴颪了倭帖K楡は姜、字は子牙。氏は呂、名は尚。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を討ち、天下を定めた。兵書「六韜(リクトウ)」はその著と伝える。 (上の故事から) 釣師の異称。(広辞苑

桓公春秋時代、斉の15代の君主。春秋五覇の一人。姓は姜、名は小白。釐公の子、襄公の弟。鮑叔牙・管仲を用いて富国強兵策を行う。(在位前685~前643)( ~前643)(広辞苑
 ここで、春秋五覇には、定説がなく、歴史書によれば、条件を完全に満たしているのは斉の桓公と晋の文公だけであり、どの文献の場合も必ず入っているので春秋五覇の代表として斉桓晋文と言われています。

景公;春秋時代の斉の第26代君主。母の穆孟姫は魯の宰相叔孫僑如の娘。荘公光の異母弟。兄の荘公が横死したあと、崔杼に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んで景公と会っている。しかし、晏嬰の指摘によって仕官はかなわなかった。

春秋戦国;春秋時代とその次の戦国時代。春秋戦国時代。(前770~前221)