君君臣臣、父父子子

論語」の顔淵12に次の章があります。
(12-11)
齊景公問政於孔子孔子對曰。君君臣臣。父父子子。公曰。善哉。信如君不君。臣不臣。父不父。子不子。雖有粟。吾得而食諸。
 この章の読み下し文は以下の通りです。
 「斉(せい)の景公(けいこう)、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、君を君とし、臣を臣とし、父を父とし、子を子とす。公曰く、善(よ)いかな。まことにもし、君、君とせられず、臣、臣とせられず、父、父とせられず、子、子とせられずんば、粟(ぞく)ありといえども、われ得てこれを食(くら)わんや。」
 これの日本語訳(金谷治訳)はこうです。
―斉の景公が孔子に政治のことをお尋ねになった。孔子がお答えしていわれた。
「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として(それぞれの本分をつくすように)あることです。」
 公は言われた。
「善いことだね。本当にもし君が君でなく、臣が臣でなく、父が父でなく、子が子でないようなら、穀物があったところで、私はどうしてそれを食べようか。」
 この章は、斉に仕官しにやってきた孔子は、斉の景公に、君としての本分を守ることを願って語った孔子の真意が理解できずに自分本位に解釈したものです。
 ここで、注釈は以下の通りです。
 せい【斉】;中国の国名。
 春秋時代の一国。周の武王が呂尚(太公望)を封じた国。今の山東省の地。二九世で田氏に滅ぼされた。都は営丘(臨〓リンシ)。姜斉。(前1122~前379)
 景公;景公(けいこう)は、春秋時代の斉の第26代君主。母の穆孟姫は魯の宰相叔孫僑如の娘。荘公光の異母弟。
 兄の荘公が横死したあと、崔杼に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い、とされる。