孔子の伝記、出生から結婚まで

 孔子についてもう一度、復習してみます。
 まず、孔子は、広辞苑には次の通り解説されています。
―こうし【孔子
 中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(チユウジ)。魯の昌平郷陬邑(スウユウ)(山東省曲阜)に出生。尭・舜・文王・武王・周公らを尊崇し、古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡(オクリナ)。(前551~前479)

 孔子は今から二千五百年あまり前の紀元前551年に魯の下級武人・孔紇(65歳)を父とし、その妾・顔徴在(25歳)を母に魯都・曲阜郊外の昌平郷の陬邑に生まれました。孔丘と名づけられました。父・孔紇は孔丘が三歳のとき亡くなり、わずかな畑を耕して生活を支えていた母も孔丘十五歳の秋に心の臓の病に倒れて不帰の客となってしまいます。
 この間、孔子は5歳のとき、母方の祖父から字を習い、祭文を諳んじ、葬祭の作法を教えてもらいます。そして、八歳の時から九年間、昌平郷で魯の役人を退官し隠居していた竹径のもとで、竹径が亡くなるまで詩・書・礼・楽を教えてもらうのです。
 孔丘は師・竹径の死後、竹径の息子竹村を頼って、魯の都・曲阜に赴き、竹村の紹介で委吏という会計職の小役人の職に就きます。孔丘が十九歳のときでした。委吏の仕事のかたわら、孔丘は竹径から譲り受けた竹簡を読み漁り、役所近くの書店で書物を立ち読みを日課とします。書店の主は、宋の元高官だった幵官子環です。書店の隣の串焼屋を営む孫の楽に孔丘は一目惚れをし、子環にも祝福されて結婚します。このとき、孔丘十九歳、楽は十八歳でした。翌年、伯魚が生まれます。

論語」述而07に次の章があります。
(07-13)
―子在齊聞韶。三月不知肉味。曰。不圖爲樂之至於斯也。―
 論語では、少し唐突にこの章が登場しますが、これは魯の昭公が宰相の李平子と大夫の郈昭伯に闘鶏事件に端を発した政変で斉に亡命したことにより、孔子の魯への仕官がかなわなくなり、顔路と子路を連れ南宮敬叔と親しい斉の高昭子の元に身を寄せ、斉で仕官の道を探っていたときのことです。
 斉への旅の途中に出会った女の話から「過酷な政治は虎より恐ろしい」がうまれ、斉の楽の太師の摯氏のもとで琴を弾き、ついに舜帝の曲にまでいきつきます。そのときの感動を表したのが、ここの章です。
 これの読み下し文は、こうです。
「子(し)、斉(せい)に在(あ)りて韶(しょう)を聞(き)く。三月(さんげつ)肉(にく)の味(あじ)を知(し)らず。曰(いわ)く、図(はか)らざりき、楽(がく)を為(な)すの斯(ここ)に至(いた)るや。」
 これの金谷訳はこうです。
―先生は斉の国で数カ月のあいだ韶の音楽を聞き(習われ、すっかり感動して)肉のうまさも解されなかった。「音楽というものがこれほど素晴らしいとは」と語った。―

 ここで、子在齊聞韶 … 皇侃(おうがん)本等では「子在齊聞韶樂」に作る。
 韶 … 舜が作ったといわれる古典音楽。
 三月 … ここでは数ヶ月。
 肉 … 縮臨本では「完」に作る。