孔子の弟子・子路について

孔子家語」(巻5)に子路孔子の門弟になるくだりのことが次のように記されています。
 
― 子路孔子に見(まみ)ゆ。子曰く「汝は何をか好楽(こうぎょう)する」と。対(こた)へて曰く「長剣を好む」と。孔子曰く「吾れこれをこれ問ふにあらざるなり。徒(ただ)謂(い)ふ、子の能(よ)くする所を以てして、これに加ふるに学問を以てせば、豈(あ)に及ぶべけんや」と。子路曰く「学豈に益あらんや」と。孔子曰く「それ人君にして諌臣なくんば則ち正を失ひ、士にして教友なくんば則ち聴を失ふ。狂馬を御するには策を釈(す)てず、弓を操るには檠(けい)に反(そむ)かず。木は縄を受くれば則ち直く、人は諌を受くれば則ち聖となる。学を受けて重ねて問はば、孰(た)れか順ならざらんや。仁を毀(そし)り仕を悪(にく)まば、必ず刑に近づく。君子は学ばざるべからず」と。子路曰く「南山に竹あり、揉(たわ?)めずして自(おのずか)ら直く、斬りてこれを用ふれば犀革に達す【註】。これを以てこれを言へば、何の学ぶことかこれ有らん」と。孔子曰く「括(かっ)してこれに羽をつけ、鏃(ぞく)してこれを礪(みが)かば、その入ること亦(また)深からずや」と。子路再拝して曰く「敬(つつし)みて教を受けん」と。ー『孔子家語』(新釈漢文大系 (53) 著者;宇野 精一)
 これは、遊侠の徒だったといわれる子路孔子の門を潜るきっかけとなった場面なのだと思う。学問の意義を説く孔子に対して、荒くれ者の子路が嘯く。
「手を加えなくても竹は真っ直ぐであり、切って用いれば硬い犀の革でさえ貫ける。学ぶことなんぞありませんや」
 孔子子路を諭した。
「その竹に羽を付け鏃(やじり)を付ければ、もっと深く入るじゃろうに」。
 鼻をへし折られた格好の子路は、そのあと孔子に二度お辞儀をして言う。「謹んで教えを受けたい」
 文庫本には読み下し文しか載っていないため、我流で現代文に訳してみるとこうなる。やはり、読み下し文の持つ格調の高さには到底かなわない。
 竹川弘太郎さんの『漂泊の哲人 孔子』にもここのくだりがある。
「南山の竹はどうかね。誰も手を加えなくても、天に向かって真っすぐに伸びているじゃないか。真っすぐな竹は、割いて使えば虎の皮だって貫き通せるじゃないか。それと同じで、生まれながら立派な男にとっては、学問なんて面倒臭いだけの代物じゃないのかい」
「いやいや、竹を例にとるならば、切り裂いた竹を磨きこみ矢羽と鏃をつけて弓で射たなら、戦場でも楽々と敵を倒すことができるんじゃないですかな」(P176)
 孔子が南宮敬叔といっしょに東周の都・成周に二年間遊学して魯の曲阜にもどり、孔丘学塾で門弟に教えていたところに子路が塾破りに現れたのである。竹川さんの『孔子』では、孔子子路の温かくも、人間性に満ちた師弟関係が丁寧に描かれている。