辺見庸「ゆで卵」から


辺見庸「ゆで卵」から

 俺は今夜最後のゆで卵の殻を、爪の跡一つ残さずにすべて剥き終えていた。
 殻よりよほど肌理細かな自身の皮膚がぬめりを帯びて、鏡面みたいに俺やケイコの影をぼんやり映している。ケイコは再びシャワーを浴びて寝じたくをしている。親切なバッジ男も、微苦笑のアメリカ人も、マイク女も、節介おばさんも、記者たちも、やじ馬も全員死に絶えたような、静かな夜だ。
 俺は素っ裸のゆで卵を占い師の水晶玉みたいに両の手のひらに載せて眺めつつ、今朝の憎しみの所在、あるいは憎しみの理由、あるいは憎しみの対象について考えてみた。
 わからないのだ、節介焼きのおばさんを押しのけて現場を立ち去り、このマンションにとぼとぼ歩いてくるときも、同じことを考えたが、なにもわからなかった。頭蓋骨のなかの水は依然、濁り腐っていた。
 マンションに着き、入れちがいに硯問屋に出勤しようとするケイコに必ずタクシーで行くようにと声をかけ、俺は年寄りの死人のように深い眠りを眠ったのだった。それから夕刻まではほんの一瞬だった。
 ケイコは帰宅してドアを開けるなり、あなた、知ってるの、たくさん人が死んだのよ、たくさん入院したのよと叫んだ。それから俺たちは連れ立ってドトールに行き、コーヒーを飲み、スパイシードッグを頬ばりながら、朝の事件について話し合った。周りの誰もが皆、同じ話をしていた。声音が皆、観てきたばかりの話題のスリラー映画について語るように、どこか浮いていた。皆が知ったかぶりだった。
 俺はバッジ男のことと俺たちが地下から地上に担ぎ上げたアメリカ人のことだけをケイコに話した。バッジ男は感動的に優しかったな、あの外国人はかわいそうに涎を垂らしながら死んだのかもしれないな、と。
 外国人はまだ死んでないはずよと彼女は専門家みたいに重々しく断言した。
 眉間に皺を寄せているのに、頬が不謹慎に笑っているおかしな顔だった。その顔つきでだった、日も暮れかかっていたのに、ケイコが唐突に近くの青松寺へお参りに行こうといいだしたのは。
「たくさん人が死んじゃったんだから、それに、あなたもわたしもこうやって助かってるんだから……」
 ケイコの声の根っこも心なしふしだらに浮いていた、と俺はいま思う。
 愛宕下通りの青松寺に着くと、ケイコは本堂には向かわずに、墓地につづく極楽坂を上りはじめた。坂の途中の薄暗がりで俺を振り向きもせずに呟いた。声がくぐもっていた。
「お墓の入り口に立ってる六地蔵にお祈りするのよ、いつも。右端の、お数珠を持った、下ぶくれのお地蔵様が、あたし好きなのよ」
 頭にカラスの糞をこんもりと載せたその下ぶくれのお地蔵に十円玉を二枚捧げ、俺たちは合掌した。
 それでおしまいと思ったら、ケイコが俺の手を引いて、慣れた足どりでずんずん墓地に入っていくのだった。手がひどく熱かった。
 墓はどれも真っ黒に煤けていて、森の焼け跡のような湿ったにおいが風に散らずに重く漂っていた。ときおり、卒塔婆がカタカタと鳴り、林立する墓石のどれも次第に輪郭を崩し闇に隠れはじめていた。
 ケイコもパンプスの音だけ残して小走りに闇に消えた。ややあって、墓石の陰からだろう、生白い手だけが一本ニュッと伸びて、おいでおいでするではないか。
 手のひらに吸われるように近づき、俺はそこでケイコとした。背後から乳首つきの左の乳房を揉み、一日汗かき働いて酸っぱくなったあそこに指を沈めてたっぷり遊ばせると、酸っぱいにおいがそこから徐々に滲み出て、森の焼け跡のにおいと溶けていっしょになり、周りに濃く滞った。
 白い尻をまるく大きな行灯みたいに闇にぼんやり浮き立て、墓石に両手をついたケイコに、頭がそう命じてもいないのに、俺の口は勝手に、いいか、振り向くなよ、顔、ふりむくんじゃねぇぞと凄んだ。卒塔婆はカタカタと鳴き、ケイコは顎を突き上げ喉でヒューヒューと泣いた。
 不公平だから、乳首のないほうの乳房もわしづかみにして攻めたてていたら、一瞬だけれど、自分が死んだ中国人になってあくどい腰使いをしている気がしてはっとした。
 度肝を抜くほど大きな東京タワーがオレンジ色に点灯されて、俺の眼前にあった。まるでどでかいお灯明だった。
 風がやや強くなってきた。ごんごんと腰振りながら顔だけ仰向くと、タワーの尖端よりさらに上の、濃紺にオレンジ色がまだらに滲んだ上空を、人が、たぶん死んだ人たちだろう、びゅうびゅうと幾人も横ざまに吹き飛んでいるように見えた。仏さんたちは皆、スーパーマンみたいに両手を真っ直ぐ前に突き出して、気持ちよさそうにどこか遠くの夜に飛んでいった。