ねぶた師のことを小説に書きたい

 ねぶたという祭は不思議な祭りだと思う。あのエネルギーは何なんだろうかと思ってしまう。4日、高名なねぶた師とその家族らしい一団が、審査員席の隣の一角に座っていた。私はその人と中学が同じで彼は先輩でもあり、私が尊敬する佐藤伝蔵というねぶた名人の弟子として、昔から注目していたひとりである。その人の双子の兄弟もねぶた師で、すでに名人の称号をもらっている。
 私の中学の同じ学年に、とても才能のある、しかも頭のいい友達がいた。その友達はねぶた師の子であったが、ねぶた師にならなかった。しかし、彼の兄がねぶた師を継ぎ、いまや名人の地位にまであがった。彼の兄は、双子の名人より先に名人となった。
 4日に隣にいたねぶた師の息子もねぶた師としてデビューしており、この日は一家でねぶた観賞の様子だった。その桟敷は電話会社の前にあり、息子の方がその会社のねぶたの製作者だった関係で、一家に桟敷が開放されていたようだった。
 ねぶた師はハンチング帽をかぶり、自ら描いた龍の絵柄のTシャツを着て、リラックスしながら、17台のねぶたを見つめ、ときおりカメラに収めていた。
 むかしは、ねぶた製作者は少ない製作費でねぶたを作らねばならず、生活のために大工や左官など、いろいろな仕事についていた。いまや、ねぶた師といい、立派な師という称号までついて、師匠とか先生といわれる芸術家になっている。
 ねぶた師は凧絵師であり、浮世絵師のような色彩感覚をもち、歌舞伎に代表される歴史文化にも通じた、絵心がまず必要とされる。次が、紙人形作家として造形の美的感覚も要求される。構造物としての設計の能力だって必要である。総じて、芸術的要素が必要とされ、まさに知的な芸術だともいえる。
 私は高名なねぶた師一家を横目で観察しながら、青森ねぶたの一端を垣間見たような気がした。市民も、観光客もねぶたに求める意識も価値観も変わっているなかで、親しみやすく、庶民的ではあるが、昔と何も変わっていない世界があることを感じた。青森ねぶたの限界のようなものがあるとすれば、そのへんだと思った。
 3日間、22台の大型ねぶたを二度・三度と観た。そして、昨夜も雨が激しくなる前に、10台くらいのねぶたを立って観賞した。3日間は桟敷に座って、写真を撮ることに集中していたせいか、実際に道路端で観るのとは感じが違っていた。
 それでも、二人の名人と高名なねぶた師のねぶたは、巧いしまとまっているものの、私にはマンネリ化していないかと気になった。その人たちの弟子や、子どものねぶたもそれぞれ巧みな職人技で丁寧に作ってあるものの、師匠や親を超えているとも思えなかった。
 ある人がいうように、「ねぶたが反権力の象徴である」とすれば、若いねぶた師は革新的な想像力で師匠や親を完膚なきまでに負かすほどのねぶたをつくってほしいと思う。
 私の知人の子で、障害のある弟の心をしずめるためにねぶた師になろうと決心して中学生のころからねぶた師に弟子入りし、最近独立した若きねぶた師の手になるねぶたも、昨年に比べればかなり上達したとは思うものの、観る者をあっといわせるインパクトにはまだ欠けていた。
 私は22台の大型ねぶたをひと通り観て、ねぶた研究所を設立してねぶた製作に打ち込んでいるねぶた師が製作した大間の伝説に材をとったねぶたが一番だと思った。おそらく次代のねぶたは彼を中心に製作されていくような気がした。
 今年くらい私は真面目にねぶたを観たことはない。今夜も22台全部のねぶたをもう一度観るつもりだ。そして、歴代のねぶた師に材を求めて、これからの青森ねぶたのことを、今度こそ小説に書いてみようと強く思った。