3日間のねぶた審査員を終えて

 2日から4日まで、3日間、つぶさに青森ねぶた祭を観賞することができた。
 幼少の頃、私は、母親の職場だった日通のねぶたに出て、仮装行列にも参加した。幼稚園から小学校にかけて、ねぶた祭が私の夏の最大の楽しみであり、喜びでもあった。それが、中学の時には、ねぶたは跳ねる祭りではなく、観る祭りになっていた。それも期間中一日、5日か6日と決まっていた。あとは家でテレビを見ていた。小学生までは、午後のねぶたに参加し、そのあとの夜の海上運行を花火大会とともに眺めることで、夏を終えていたのに、中学の時はなぜか花火大会にも無縁となっていた。
 高校の時も、二年までは水泳部の部活で、ねぶた祭どころではなかった。三年の夏は受験勉強もせず、ひたすら夏目漱石全集ばかり読んで夏休みが終わった。
 学生時代の7年間、秋田と仙台から帰省するたびに、ねぶたに跳ねた。ねぶたの衣装に花笠を被り、正統派で通した。高校時代の友人たちとねぶたを跳ね、朝まで飲んだ。あのころが、一番楽しかったのかもしれない。
 青森に帰郷して、結婚そして子どもが4人もできて、ねぶたは跳ねるものから、送り出す側に変わった。親子ねぶたに始まって、市P連の大型ねぶたの運行に7年もかかわった。PTAを卒業してから、わたしのねぶた祭に対する思いは薄れてしまった。4人の子が学生時代、東京から帰省するたびに友達を連れてきて、家に泊まり、ねぶたに跳ねた。私は祭り会場までの運び屋になった。女房は着付け係である。子どもたちは家に戻ってきては、大宴会が延々と続いた。それがまた、私と女房にとっては楽しいのであった。
 不思議なもので、4人の子のうち、一番、ねぶたに無関心だった末っ子が青森に就職し、今では職場のねぶたに参加している。ねぶた好きの長男はニューヨークにいて、青森ねぶたを現地で運行したいと狙っているし、馬鹿がつくほどねぶた好きだった次男は祭り期間がもっとも繁忙期で、せいぜい遠い空から眺めているだけなのだ。ねぶたに跳ねて、夜半まで帰ってこなかったことがある娘にしたって、結婚して東京で家庭を持つ身とあっては、おいそれとはねぶた祭に帰ってこれはしないのだ。
 3日間、桟敷席でねぶたを観て、いくつかのことがわかった。22台の大型ねぶたのうち、15台から17台のねぶたを観たが、昔のような迫力がなくなっているように感じた。ねぶたそのものも、あっといわせるような構図や新しい企画がないように感じた。ねぶた師の感性があまり感じられなくなった。また、「ラッセラー」の掛け声も、先導役が拡声器で叫んでいるのはいただけない。地声でなくては、地響きのような音はでてこない。そんなに跳人や子どもが少ないのだ。それは、太鼓や笛、手振り鉦の囃子方についてもいえる。ねぶたに参加する市民が少なくなっているのだ。それは、聴衆の中に市民の姿が少ないことにも通じている。
 そんななかで、3日までの子どもねぶた、地域ねぶたに希望をもった。新しい企画と子供や青年の元気な姿がそこにあった。動員ではない、自分たちのねぶたとしての誇りが感じられた。
 かつて青森ねぶたに勇気と元気をもらっていた市民が、いまは半分、あきらめているのではないか、そう感じた。ねぶたが廃れば、青森の街も廃れるだけに、あきらめかけている人たちに、かつての栄光の青森ねぶたを取り戻してもらうために、何が大事かすこしく考えてみたいと思う。