魯迅箴言日記 2020/01/11 口紅や四十の顔も松の内

 今日は、1月11日、土曜日です。今日は癸丑、満月、旧暦の12月17日、鏡開き、蔵開き、五黄、仏滅の日です。

 ここで、

 癸;みず‐の‐と【癸】ミヅ‥
(「水の弟(オト)」の意) 十干(ジツカン)の第10。十干;じっ‐かん【十干】甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称。これを五行(ゴギヨウ)に配し、おのおの陽すなわち兄(エ)と、陰すなわち弟(ト)をあてて甲(キノエ)・乙(キノト)・丙(ヒノエ)・丁(ヒノト)などと訓ずる。普通、十干と十二支とは組み合せて用いられ、干支(カンシ)を「えと」と称するに至った。十二支;じゅうに‐し【十二支】ジフ‥暦法で、子(ネ)・丑(ウシ)・寅(トラ)・卯(ウ)・辰(タツ)・巳(ミ)・午(ウマ)・未(ヒツジ)・申(サル)・酉(トリ)・戌(イヌ)・亥(イ)の称。中国で十二宮の各々に獣を充てたのに基づくという。すなわち、子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は竜、巳は蛇、午は馬、未は羊、申は猿、酉は鶏、戌は犬、亥は猪。その各々を時刻および方角の名とする。

   十 干
──────┬─────
甲(コウ・キノエ) │木の兄
乙(オツ・キノト) │木の弟
丙(ヘイ・ヒノエ) │火の兄
丁(テイ・ヒノト) │火の弟
戊(ボ・ツチノエ) │土の兄
己(キ・ツチノト) │土の弟
庚(コウ・カノエ) │金の兄
辛(シン・カノト) │金の弟
壬(ジン・ミズノエ) │水の兄
癸(キ・ミズノト) │水の弟

 丑;うし【丑】①十二支の第二。②北から東へ30度の方角。

 満月;まん‐げつ【満月】①全面が輝いて円く見える月。太陽と月との黄経の差が180度の位置にあたる時におこる。特に陰暦八月一五日の満月は、名月として賞される。もちづき。十五夜の月。望(ボウ)。望月(ボウゲツ)。季・秋 ②琵琶の名所(ナドコロ)。隠月(インゲツ)の別称。

 旧暦;きゅう‐れき【旧暦】キウ‥ ①旧制のこよみ。古い暦法。②(明治維新前に使用したからいう) 太陰太陽暦の通称。→新暦;しん‐れき【新暦】;①新しいこよみ。新暦法。②(明治維新後、新たに採用したからいう) 太陽暦の通称。旧暦の明治5年(1972)12月3日を、新暦明治6年1月1日とした。陽暦。→旧暦

 鏡開き;かがみ‐びらき【鏡開き】(「開き」は「割る」の忌み詞) ①正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。近世、武家で、正月に男は具足餅を、女は鏡台に供えた餅を正月20日(のち11日)に割って食べたのに始まる。鏡割り。季・
新年②祝事に酒樽のふたを開くこと。鏡抜き。

 蔵開き;くら‐びらき【蔵開き】新年に吉日を選び、その年初めて蔵を開くこと。多くは1月11日とし、福神に供えた鏡餅で雑煮を作ったりする。

 五黄;ご‐おう【五黄】‥ワウ 九星の一。土星に配し、本位は中央。この星の生れの者は、性質寛仁で、運気が強いとされる。「―の寅」 九星;きゅう‐せい【九星】キウ‥ 陰陽道(オンヨウドウ)で、九つの星に五行(ゴギヨウ)と方位を組み合せ、これを人の生年に当てて吉凶を判断するもの。

  九星
──────┬──┬───┬────
 名 称 │五行│方位│八卦
──────┼──┼───┼────
一白(イッパク) │水星│ 北 │坎(カン)
二黒(ジコク)  │土星│西南 │坤(コン)
三碧(サンペキ) │木星│ 東 │震(シン)
四緑(シロク)  │木星│東南 │巽(ソン)
五黄(ゴオウ)  │土星│中央 │
六白(ロッパク) │金星│西北 │乾(ケン)
七赤(シチセキ) │金星│ 西 │兌(ダ)
八白(ハッパク) │土星│東北 │艮(ゴン)
九紫(キュウシ) │火星│ 南 │離(リ)

 仏滅;ぶつ‐めつ【仏滅】①仏の入滅。釈尊の死。②仏滅日の略。暦注の六輝の一で、勝負なしの日。俗に万事に凶である悪日とする。

 

 今日の子規歳時は、「口紅や四十の顔も松の内」(明治26年)です。小さい頃、子規はヘボで弱ミソと言われていたと言う。鼓や太鼓の音にも恐がったという。季語は、「松の内」です。

まつ‐の‐うち【松の内
正月の松飾りのある間の称。昔は元日から一五日まで、現在は普通七日までをいう。標(シメ)の内。季・新年

 

 今日の魯迅箴言は、箴言359です。

 凡批评家的对于文人

    或文人们的互相评论,

    各各「指其所短,扬其所长」固可,

    即「掩其所短,称其所长」亦无不可。

    然而那一面一定得有「所长」,

    这一面一定得有明确的是非,

    有热烈的好恶。

 すべて批評家が文人に対して、

 あるいは文人たち同士でもって評論するのに、

 各々「その短所を指し、その長所を掲げる」のはもちろん好いのだ。

 「その短所を掩し、その長所を称える」のだって悪くはない。

 しかしながらあちら側(批評家)には必ず「長所」がなければならないし、

 こちら側(文人)には明確な是非があり、

 熱烈な好悪がなければならない。