「中国一向就少有失败的英雄,
少有韧性的反抗,
少有敢单身鏖战的武人,
少有敢抚哭叛徒的吊客;
见胜兆则纷纷聚集,
见败兆则纷纷逃亡.」
これの日本語訳はこうです。
「中国には一貫して、失敗した英雄が少なく、
強靭な反抗が少なく、
あえて単身で斬り込む武人が少なく、
反逆者を哭いて悼む弔問者も少なかった。
勝ちそうだと見れば、われ先に集まるが、
負けそうだと見れば、散り散りに逃げていく。」
つまり、中国では勝者だけが英雄として祭りあげられ、体制に反抗、反逆して敗れた者を称えたり、悼んだりする国民性はかつても、今に至ってもないということです。中国においては、反体制や民主化の闘士を国民が支持し擁護するということはあり得ないと魯迅は言っています。それは、私の中国・長春での教え子の多くも、長春出身のノーベル平和賞をもらった民主化活動家の劉暁波氏のことを単なる犯罪者と決めつけていたのと同じだと思います。
中国においては、反体制の民主化運動はいまの体制が変わらない限り、指導者が英雄になることもなく、国民から支持されることもないのです。弱者はつねに敗者であり、強者のみが勝者であり、英雄に祭りあげられるということになります。そういう意味では、中国の国民性がいまの中国共産党の一党独裁制にかなっているということになります。魯迅は生前からそのことを見抜いていたのだと思います。
その意味では中国を読み解く鍵も、これからの中国を予測する意味でも、あらためて魯迅を研究することは意義あることだと思います。