今日の孔子の論語一日一章は、第3篇「八佾第三」の第6章「女弗能救與」(女救ふ能はざるか)です。
これの漢文原文はこうです。
「李氏旅於泰山。子謂冉有曰、女弗能救與。對曰、不能。子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎。」
また、この章の読み下し文はこうなります。
「李氏泰山に旅す。子、冉有に謂って曰く、『女(なんじ)救ふ能はざるか。』対へて曰く、『能はず。』子曰く、『嗚呼、曾(すなわ)ち泰山は林放(りんぽう)に如かすと謂(おも)へるか。』」
ここで、この章の中国語簡体表記はこうなります。
「李氏旅於泰山。子谓冉有曰,女弗能救与。对曰,不能。子曰,呜呼,会谓泰山不如林放乎。」
つまり、日本語訳はこうなります。
「諸侯が領地内の山川を祭ることになっているが、魯の大夫の李子は諸侯でないのに魯の国内にある泰山の祭りをしようとした。孔子が弟子の冉有に向かって、『おまえは主人の李子が僭上の罪に陥るのを救うことは出来ないか』というと、冉有は『主人の李子は泰山を祭って幸福を求めようと思い込んでいますから、私が諌めたくらいでは思いとどまりません。それゆえ私には李子が僭上の罪に陥るのを救うことは出来ません』と対(こた)えた。孔子はこれを聞いて歎じて曰うには、『ああ、それならば泰山の神は、林放にも及ばないものだと思っているのであろうか。林放は人であるのに、なお文の過ぎるのは礼に外れていることを知っている。泰山は神であるから、どうして礼に外れた祭りをうけることがあろう。』と。」
また、ここでの語句と語彙の解釈はこうなります。
旅(りょ);山を祭るのを旅という。物を列(なら)べて祭るので、常の祭りではありません。
女(なんじ);汝と同じです。
曾(すなわ)ち;乃ちの意味です。
この章は、孔子が李子の僭越を歎じて、これを救おうとする意をのべたものです。
冉有は孔子の弟子で、名を求といいます。当時、李子の家宰(家老)となっていたのです。
雍を歌ったり八俏を舞わせたりしたのは、一家のうちのことであるけれども、泰山の祭りは諸侯のすべきことを公然と国内で行おうとするので、はなはだ無遠慮な振舞いといえます。