今日の論語一日一章「非其鬼而祭之、詔也。見義不為、無勇也」

 今日の論語一日一章は第2篇の最終章、有名な「義を見てせざるは、勇なきなり」です。この章で第2篇は終わりです。あすからは第3篇「八佾第三」です。
 
 今日の論語一日一章は、第2篇「為政第二」の第24章「非其鬼而祭之、詔也。見義不為、無勇也」(其の鬼に非ずして而して之を祭るは詔(へつら)ふなり。義を見て為さざるは、勇なきなり。)です。
 この章の漢文原文はこうです。
 「子曰、非其鬼而祭之、詔也。見義不為、無勇也。」
 これの読み下し文はこうなります。
 「子曰く、其の鬼に非ずして而して之を祭るは諂ふなり。義を見て為さざるは勇なきなり」
 また、中国語簡体表記はこうです。
 「子曰,非其鬼而祭之,诏也。见义不为,无勇也。」
 この章の日本語訳はこうなります。
 「孔子が言われた。己の祭るべき鬼神でもないのに、之を祭るのは鬼神に諂うのである。鬼神は礼に外れた祭りを受けつけないから、いかに媚び諂って幸福を求めようとしても決して得られるものではない。道理の上から考えて当然なすことであるのに進んでしないのは、勇気がないのである。道理の上から考えて当然なすべき事ならば、必ず進んですべきものである、と。」
 ここで、この章の語句・語彙の解釈はこうです。
 其の鬼;「其」は神を祭る人を指しています。鬼は人の死後、神として祭られるのをいいます。子孫が祖先を祭るごときは、其の鬼を祭るのと同じことだといっているのです。
 この章は、二つのことを述べています。一つは、してはならないことであるのにすることであります。もう一つは、すべきであることなのにしないことであります。
 つまり、人は人道上当然なすべき事に力を用いて、鬼神のような人の力では測り知られないものに迷ってはならない、ということを言っているのです。