6月26日、金曜日です。

 今日は6月26日、早いもので、6月もあと5日となりました。6月7日に選挙が終わり、19日に校正の仕事がおわり、25日で『吾輩は猫である』を読了しました。この一カ月、ともかく子規歳時、魯迅箴言論語一日一章の日課だけはどうにかやりとおすことができました。

 さて、今日の子規歳時は、
 蝸牛の頭もたけしにも似たり (1902年、明治35年6月26日)
 明治32年6月19日、阪井久良岐が写真機を携えて子規庵を訪れています。気分の良かった子規は、病床から縁側ににじり出て、カメラに収まったのでした。

 今日の魯迅箴言は、箴言114です。この箴言は長いのです。
 嗜好的读书,该如爱打牌的一样,天天打,夜夜打,连续的去打,
  有时被公安局捉去了,放出来之后还是打。
  诸君要知道真打牌的人的目的并不在蠃钱,而在有趣。
  牌有怎样的有趣呢,・・・ 
  它妙在一张的摸起来,永远变化无穷。
  我想,凡嗜好的读书,
  能够手不释卷的原因也就是这样。
  他在每一叶里,都得着深厚的趣味。
 Shìhào de dúshū, gāi rú ài dǎpái de yīyàng, tiāntiān dǎ, yè yè dǎ,
 liánxù de qù dǎ,
 yǒushí bèi gōng'ān jú zhuō qùle, fàng chūlái zhīhòu háishì dǎ.
 Zhū jūn yào zhīdào zhēn dǎpái de rén de mùdì bìng bùzài luǒ qián,
 ér zài yǒuqù.
 Pái yǒu zěnyàng de yǒuqù ne, 
 tā miào zài yī zhāng de mō qǐlái, yǒngyuǎn biànhuà wúqióng.
 Wǒ xiǎng, fán shìhào de dúshū,
 nénggòu shǒubùshìjuàn de yuányīn yě jiùshì zhèyàng.
 Tā zài měi yī yè lǐ, dōu dézháo shēnhòu de qùwèi。
「好きでやる読書は、麻雀好きが、昼も夜もなく打ちつづけ、公安局に捕まろうとも、出て来るなりまた打つのと似ています。皆さん、真の麻雀打ちの目的は、金稼ぎにあるのではなく、愉しみにあるのです。麻雀の愉しみとはどんなものでしょうか。・・・その妙味は、牌を一つ一つ積もってくることによって、どこまでも変化が尽きないことにあるようです。好きでやる読書が、書物から手を離せなくなる理由も、似たようなものではないでしょうか。読者は一頁一頁のなかに、味わい深い面白味を汲みとっているのです。」
 嗜好;嗜好 shihao 読書;读书 dushu 麻雀;打牌 dapai 連続;连续 lianxu 
  警察;公安局 gonganju 諸君;诸君 zhujun 金稼ぎ;蠃钱 luoqian 
  一頁;一叶 yixie 面白味;趣味 quwei

 今日の論語は、論語7-36(巻第四 述而第七篇の36章)です。
 子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚。
 Zǐ yuē, jūnzǐ tǎn dàngdàng, xiǎo rén zhǎng qī qī.
「子曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩たり。小人は長(とこし)えに戚戚たり。」(孔子がいわれた、「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている。」と。)(子曰,君子坦荡荡,小人长戚戚。)