魯迅箴言日記 2020/05/10 一輪の牡丹かかやく病間哉

 今日は5月10日、日曜日です。昨日は、12時まで日課の残りをやって、眠りにつきました。飲み過ぎたせいか、何度もトイレに起きましたが、結局、起きたのは9時でした。顔を洗い、髭を剃ったら、すっきりしました。今日は、まず日課をやり、昼前に買い物にいきます。そして、あとは明日の準備にとりかかります。午後にはまた、古川の二つの事務所にいくつもりです。やはり、隣家の主人の物音が聞こえないのが寂しいです。40年の隣家の一家と私の家の歴史が思い出されます。私は次男が生まれる年に今の浪館前田に引越ししました。ことし40歳になる次男が今日、母の日のプレゼントにカーネーションを贈ってくれました。隣家は一人娘で、嫁いでいますが、娘の夫君が今年の1月に転勤で青森に帰って来たのを主人は喜んでいたの思い出しました。弔問に行ったとき、隣家の奥さんは少しやつれて見えましたが、昔ながらに気丈な人のままでした。これからは、これまでどおり、そっと見守りつづけたいと思います。

 

 今日の子規歳時は、「一輪の牡丹かがやく病間哉」(明治32年)です。この日、把栗と鼠骨が子規の所へ、薄氷という名前の薄紅大輪の牡丹の鉢を抱えて訪れました。

 

 今日の魯迅箴言は、箴言130の114「好きでやる読書は、」です。

 (原文)

  嗜好的读书,该如爱打牌的一样,天天打,夜夜打,连续的去打,

     有时被公安局捉去了,放出来之后还是打。

     诸君要知道真打牌的人目的并不在蠃钱,而在有趣。

     牌有怎样的有趣呢,……

  它妙在一张一张的摸起来,永远变化无穷,

     我想,凡嗜好的读书,

     能够手不释卷的原因也就是这样,

     他在每一叶每一叶里,都得着深厚的趣味。

 (拼音)

     Shìhào de dúshū, gāi rú ài dǎpái de yīyàng, tiāntiān dǎ, yè yè dǎ, liánxù de qù dǎ, 

     yǒushí bèi gōng'ān jú zhuō qùle, fàng chūlái zhīhòu háishì dǎ.

     Zhū jūn yào zhīdào zhēn dǎpái de rén mùdì bìng bùzài luǒ qián, ér zài yǒuqù.

     Pái yǒu zěnyàng de yǒuqù ne,……

     tā miào zài yī zhāng yī zhāng de mō qǐlái, yǒngyuǎn biànhuà wúqióng,

     wǒ xiǎng, fán shìhào de dúshū,

     nénggòu shǒubùshìjuàn de yuányīn yě jiùshì zhèyàng,

     tā zài měi yī yè měi yī yè lǐ, dōu dézháo shēnhòu de qùwèi.

 (訳文)

  好きでやる読書は、麻雀好きが、昼も夜もなく打ちつづけ、

  警察に捕まろうとも、出て来るなりまた打つのと似ています。

  皆さん、真の麻雀打ちの目的は金稼ぎにではなく、愉しみにあるのです。

  麻雀の愉しみとはどんなものでしょうか。……

  その妙味は、牌を一つ一つ積もってくることによって、

  どこまでも変化が尽きないことにあるようです。

  好きでやる読書が、書物から手を離せなくなる理由も、

  似たようなものではないでしょうか。

  読者は一頁一頁のなかに、味わい深い面白みを汲みとっているのです。