今日の論語一日一章は、第3篇「八佾第三」の第5章「夷狄之有君」(夷狄もこれ君あり)です。
これの漢文原文はこうです。
「子曰、夷狄之有君。不如諸夏之亡也。」
また、この章の読み下し文はこうなります。
「子曰く、夷狄これ君あり。諸夏の亡きが如くならざるなり。」
ここで、中国語簡体表記はこうなります。
「子曰,夷狄之有君。不如诸夏之亡也。」
この章の日本語訳はこうです。
「孔子が言われた。文化の程度が低い夷狄の国でもなお君があって、君臣の分は定まっている。わが住む中国の人たちが君のあるのを忘れて上下の分を乱しているのとはちがう。中国の誇りとすべきことは大義名分が明らかであることであるのに、今はかえって夷狄に及ばないのは慨歎すべきことである、と。」
この章の語句・語彙の解釈はこうです。
夷狄(いてき);中国本土の人が文化の低い国をさしていうのです。
諸夏(しょか);諸は衆、夏は大、人民が衆多で土地が広大だから諸夏というのだということです。
亡し;ここでは、無しの意です。
この章は、孔子が当時の大義名分の乱れたことを嘆じた言葉です。
この章の別の解釈では、「夷狄の君あるは諸夏の亡きにしかず」と読んで、「中国は礼儀が盛んで、夷狄には礼儀がないから、夷狄に君のあるのは、中国の君が無いのに及ばない」というふうに解する説もあります。