今日の論語一日一章「聖人、吾不得而見之矣」

 今日は7月31日です。明日から、8月です。
 今日の論語一日一章は、第7編「述而第七」第25章「聖人、吾不得而見之矣」(聖人は吾を得て之を見ず)です。
 この章の漢文原文はこうです。
 「子曰、聖人、吾不得而見之矣。得見君子者子斯可意矣。子曰、善人、吾不得而見之矣。得見有恆者斯可矣。亡而爲有、虚而爲泰。約而爲泰。難乎有恆矣。」
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 これの読み下し文はこうです。
 「子曰はく、聖人は吾得て之を見ず。君子を見るを得ば斯れ可なり。子曰はく、善人は吾得て之を見ず。桓ある者を見るを得ば斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚しくして盈てりとなし。約にして泰なりと為す。難いかな桓あること。」
 これの中国語簡体表記はこうなります。
「子曰,聖人,吾不得而见之矣。得见君子者子撕可意矣。子曰,善人,吾不得而见之矣。得见有恒者撕可矣。亡而为有,虚而为泰。难乎有恒矣。」
これの日本語訳はこうです。
「聖人は神のような徳があって凡人の測り知ることのできない者であるが、しばしば出るものでないから、わしはとうていこれを見ることができない。才徳の衆人にすぐれた君子を見ることができればせめてもの心やりである。善人は仁に志して悪い事をしないものであるが、これもめったにあるものではないから、わしはとうてい見ることができない。常に、久しく変わらない人を見ることができれば、せめてもの心やりである。今の人は無いのに有るような風をし、虚しいのに盈(み)ちているような風をし、貧しいのに豊かで侈(おご)ってるような風をするから、常に久しく変わらないことはむずかしいことだ。」
語彙の解説はこうです。
斯(こ)れ;則の字のような意味です。
可(か);心を慰めることができるという意味です。
約(やく);貧乏なことの意味です。
泰(たい);豊かで侈(おご)ることです。
難(かた)いかな;嘆息したことを表わした語です。
難いかな恒(つね)あること;有(ゆう)や盈(えい)や泰(たい)等が必ず久しく続かないことをいいます。
この章は、孔子が立派な人を見ることができないことを歎じた章です。
恒(つね)ある者と聖人とは非常に距離があるけれども、「恒有る」の路を経由しないで聖人に至る者はいない。故に章の末に重ねて「恒有る」の意義を述べている。孔子が人に入徳の門を示すところは深切著明であると謂わねばならぬ。(朱子の説)