2月28日は焼酎をのんで早めに寝てしまいました。

 2月28日は土曜日でした。朝起きて、8時29分のしあわせプラザ行のバスに乗って、市役所前で降り、蓮心寺へ向かいました。蓮心寺に前夜、車を置いてきたからです。朝9時前とあって、寺町の保育園の前にお父さんが車をとめ、保育児を連れて玄関をあけていました。土曜日でも、保育園はやっているんだ、そう思いました。
 蓮心寺の境内はひっそりと朝をむかえていました。読経の声は聞こえません。義悦住職は前日の市民の会の例会にも姿をみせませんでした。おそらく京都へ出張なのでしょう。
 9時には青柳の事務所へ着き、吉川さんらスタッフへ挨拶し、資料情報室の新聞の原稿を書き始めました。2月末締切の予定で残っていたのはこの原稿だけです。北狄370号の小説「クイーンズから来た岬」(30枚)、新聞への川柳投句2句、所属する川柳社への投句2句、それらはすべて終わり、残っていたのは5月から理事に就任予定の情報室の原稿だけでした。本文が800字、プロフィールが120字、それに写真を添えることが約束でした。
 本文の原稿「日本の原発廃炉に」ができかけたところへ、高齢による体調を考慮して2月でスタッフを降りることになった人のご苦労さん会を兼ねた昼食会をラーメン屋でやるというので誘われました。
 事務所の裏のラーメン屋から戻ってきて、原稿をすべて完成させ、写真の画像も添付して、新聞の編集長宛てに送ったのが1時でした。そのあと、吉川さんから発文の入力をお願いされ、それをでかしてプリントアウトし終えたあと、車を置きにいったん家へ戻りました。
 自転車へ乗り換えて、3時半にアラスカ会館で開かれる日中友好協会青森支部の総会の受付の手伝いに行きました。当日の出席は40人ほどで、予定された人がほぼ全員、4時の開会時間までに集まりました。藤巻先生とも挨拶することができました。5時に総会が終わり、懇親会には出ずに、青柳の事務所へ向かいましたが、事務所はシャッターが下りていました。そんなわけで、その日はまっすぐ、家へ帰ろうと思いました。
 鳥平の暖簾が目に入り、ちょっと寄って、野菜、ハツ、カシラを食べて家に帰り、焼酎をお湯割りで飲んで、早々に眠ってしました。

 子規歳時です。

 氷解けて水の流るゝ音すなり (1901年、明治34年2月28日)

 伊藤左千夫が秀真・麓らとともに訪ねてきて茶を立て、会席料理をもてなしたのは明治34年2月28日、子規は会席料理は初めてで珍しがったそうです。子規はこの日、左千夫の持参した釜にこの句を題したのです。

 今日の論語は、雍也第六の7節と8節です。

6-7 子曰,囘也其心三月不违仁,其馀则日月至焉而已矣,
(子曰わく、回や其の心三月仁に違わず。其の余は則ち日月に至るのみ。)
6-8 李康子问,仲由可使从政也与,子曰,由也果,於从政乎何有,曰,赐也可使从政也与,子曰,赐也达,於从政乎何有,曰,求也可使从政也与,子曰,求也艺,於从政乎何有,
(季康子、問う、仲由は政に従わしむべきか。子曰わく、由や果、政に従うに於いて何か有らん。曰わく、賜は政に従わしむべきか。曰わく、賜や達、政に従うに於いてか何か有らん。曰わく、求は政に従わしむべきか。曰わく、求や藝あり、政に従うに於いて何か有らん。