10月8日、今日は強い風に秋の日差しも飛ばされています

 快調に毎日を過ごしています。何かに追い詰めれているような強迫観念でたまらなかった去年に比べ、今年は有実して日々を送れるのはなんと幸せなのでしょうか。温良恭倹譲まさに五徳の精神がすこしづつ身についてきました。

 今日の子規歳時は、
 行く秋の我に神無し仏無し (1895年、10月8日)
 今出からの帰途、子規は車上でこの句を詠んでいます。「病牀六尺」には「宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない」信ぜぬものに神の救いも及ばず、南無阿弥陀仏で日は暮らせぬと書いています。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言91です。
 军阀们也不是自己亲身在斗争,
 是使兵士们相斗争,所以频年恶战,
 而头儿个个终于是好好的,忽而误会消释了,
 忽而杯酒言欢了,忽而共同御侮了,
 忽而立誓报国了,忽而…。
 不消说,忽而自然不免又打起来了。
 Jūnfámen yě bùshì zìjǐ qīnshēn zài dòuzhēng,
 shì shǐ bīngshìmen xiāng dòuzhēng, suǒyǐ pín nián èzhàn,
 ér tóu er gè gè zhōngyú shì hǎohǎo de, hū'ér wùhuì xiāoshìle,
 hū'ér bēi jiǔ yánhuānle, hū'ér gòngtóng yùwǔle,
 hū'ér lìshì bàoguóle, hū'ér….
 Bùxiāo shuō, hū'ér zìrán bùmiǎn yòu dǎ qǐláile.
軍閥たちは自分で自らは闘争しないで、兵士たちを使って闘争させる。だから、よく苦戦するし、それでもみんなにとてもいい人になったり、突然、戦いをやめるといいだしたり、突然に、祝杯をあげると言い出したり、はたまた突然に悔しがったり、突然に国恩に報いると誓いを立てたり、また突然に、何かをしたりする。そして、また突然に、闘争を始めようと自然に言い出すことも、いうには及ばないのだ。」

 今日の論語一日一章は、論語11-26(論語巻第六 先進第十一篇 26章)です。
 子路會晳冉有公西華、侍坐、子曰、以吾一日長乎爾、無吾以也、居則曰、不吾知也、如或知爾則何以哉、子路率爾而對曰、千乗之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以飢饉、由也爲之、比及三年、可使有勇且知方也、夫子晒之、求爾何如、對曰、方六七十、如五六十、求也爲之、比及三年、可使足民也、如其禮樂、以候君子、赤爾何如、對曰、非曰能之也、願學焉、宗廟之事、如會同、端章甫、願爲小相焉、點爾何如、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、對曰、異乎三子者之撰、子曰、何傷乎、亦各言其志也、曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、欲乎沂、風乎舞雩、詠而歸、夫子喟然歎曰、吾與點也、三子者出、會晳後、會晳曰、夫三子者之言何如、子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何晒由也、子曰、爲國以禮、其言不譲、是故晒之、唯求則非邦也與、安見方六七十如七十如五六十而非邦也者、唯赤則非邦也與、宗廟之事如會同非諸候如之何、赤也爲之小相、孰能爲之大相、
 Zilù huì xī rǎnyǒugōng xī huá, shì zuò, zǐ yuē, yǐ wú yī rì zhǎng hū ěr,
 wú wú yǐ yě, jū zé yuē, bù wú zhīyě, rú huò zhī ěr zé héyǐ zāi,
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 wéi chì zé fēi bāng yě yǔ, zōngmiào zhī shì rú huìtóng fēi zhū hòu rú zhī hé,
 chì yě wèi zhī xiǎo xiāng, shú néng wèi zhī dà xiāng,
子路会皙冉有公西華,侍坐,子曰,以吾一日长乎尔,无吾以也,居则曰,不吾知也,如或知尔则何以哉,子路率尔而对曰,千乘之国,摄乎大国之閒,加之以师旅,因之以饥馑,由也为之,比及三年,可使有勇且知方也,夫子晒之,求尔何如,对曰,方六七十,如五六十,求也为之,比及三年,可使足民也,如其礼乐,以侯君子,赤尔何如,对曰,非曰能之也,願学焉,宗廟之事,如会同,端章甫,願为小相焉,点尔何如,鼓瑟希,铿尔舍瑟而作,对曰,异乎三子者之撰,子曰,何伤乎,亦各言其志也,曰,莫春者春服既成,得冠着五六人童子六七人,浴乎沂,风乎舞雩,詠而归,夫子喟然歎曰,吾与点也,三子者出,会皙后,会皙曰,夫三子者之言何如,子曰,亦各言其志也已矣,曰,夫子何晒由也,子曰,为国以礼,其言不让,是故晒之,唯求则非邦也与,安见方六七十如五六十而非邦也者,唯赤则非邦也与,宗庙之事如会同非诸侯如之何,赤也为之小相,孰能为之大相,
子路、曾晳、冉有、公西華、侍坐す。子曰わく、吾が一日も爾より長じたるを以て、吾を以てすること無かれ。居れば則ち曰わく、吾れを知らずと。如し爾を知るもの或らば、即ち何を以てせんや。子路率爾として対えて曰わく、千乗の国、大国の間に摂して、これに加うるに、師旅を以てし、これに因るに飢饉を以てせんに、由やこれを為め、三年に及ぶ比(ころ)に、民を足らしむべきなり。其の礼楽の如きは、以て君子に俟たん。赤よ爾は何如(いかん)。対えて曰わく、これを能くすと曰うには非ず。願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同に、端章甫して願わくは小相たらん。点よ爾は何如。瑟を鼓くことを希(や)み、鏗爾として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対えて曰わく、三子者の撰に異なり。子曰わく、何ぞ傷まんや、亦た各々其の志しを言うなり。曰わく、暮春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人を得て、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん。夫子喟然として嘆じて曰わく、吾れは点に与せん。三子者出ず。曾晳後れたり。曾晳が曰わく、夫の三子者の言は何如。子曰わく、亦た各々其の志しを言うのみ。曰わく、夫子、何ぞ由を哂うや。曰わく、国を為むるには礼を以てす。その言譲らず。是の故にこれを哂う。求と雖ども則ち邦に非ずや。安(いずく)んぞ方六七十如しくは五六十にして邦に非ざる者を見ん。赤と雖ども則ち邦に非ずや、宗廟・会同は諸侯に非ずしてこれを何如。赤やこれが少相たらば、孰(たれ)か能くこれが大相たらん。」
子路と曾晳と冉有と公西華がおぞばにいた。孔子がいわれた、「わたしがお前たちより少し年上だからといって、遠慮をするな。ふだんはいつもは『わたしの真価をしってくれない。』といっているが、もしだれかお前たちのことを知って(用いて)くれたとしたら、どうするなか。」子路がいきなり答えていった、「兵車千台を出すていどの国が(万台)を出すような大国の間にはさまり、さらに戦争が起こり飢饉が重なるというばあい、由(このわたくし))がそれを治めれば、三年もたったころには(その国民を)勇気があって道をわきまえるようにさせることができます。」孔子はその言葉に笑われた。「求、お前はどうだね。」答えていった、「六七十里か五六十里四方の(小さい))ところで求が治めれば、三年もたったころには(その国民を)勇気があって道をわきまえるようにさせることができます。礼楽などのことは、それは君子にたのみます。」「赤、お前はどうかね。」答えていった、「できるというのではありません、学びたいのです。宗廟のおつとめや諸侯の会合のとき、端の服をきて章甫の冠をつけ、いささかの助け役になりたいものです。」「点、お前はどうだね。」瑟をひいていたのがとまると、カタリとそれをおいて立ち上がり、答えていった、「三人のような立派なのと違いますが。」孔子が、「気にすることはない。ただそれぞれに抱負をのべるだけだ。」といわれると、「春の終わりごろ、春着もすっかり整うと、五六人の青年と六七人の少年を伴って、沂水でゆあみをし、雨乞いに舞う台地のあたりで涼みをして、歌いながら帰ってまいりましょう。」といった。孔子は「ああ」と感歎すると、「わたしは点に賛成するよ。」といわれた。三人が退出して、曾晳があとに残った。曾晳はたずねた。「あの三人のことばはどうなのでしょうか。」孔子はいわれた、「ただ、それぞれに抱負をのべただけのことだよ。」「先生はなぜ由のことを笑われたのでしょう。」「国を治めるには礼によるべきだが、そのことばはぶしつけ(で礼をわきまえないよう)だ。そのために笑ったのだ。求のばあいでもやはり邦ではないか。六七十か五六十里四方で邦でないものがどうしてあろうか。赤の場合でもやはり邦ではないか。宗廟や会合が諸侯のことでないとすればどういうことになろう。(ひとしく国家のことだが、この二つのつつましさが由とは違う。)赤がいささかの助け役になるのなら、だれが大きな役になれようか。」と。)