3月19日、我病んで花の句も無き句帖かな

 今日は3月19日です。すっかり春になりました。我が家のソーラーは2月に1kwh発電し、3月はすでに115kwhも東北電力に売電しています。来月からは買電より売電の方が上回りそうです。せいぜいこれからも節電につとめることにします。
 1986年のチェルノブイリ原発事故でヨーロッパの大半は原発と人類は共存できないと判断しました。ことしはチェルノブイリ原発事故から30年を迎えます。1979年3月28日のアメリカのスリーマイル島原発事故により、その後米国では新規の原発は稼働していない。
 日本では、2011年3月11日の東日本大震災とその後の福島第一原発事故が発生して、その教訓からいって日本こそ原発からの撤退をしなければならないはずだと思います。安倍晋三内閣になってそうなっていない現状が生まれています。国民大衆もそんな自明のことにさえ、ノーと言えないで漂流しています。冷静に判断すればすぐにわかることにさえ目をつむり、その日暮らしを続けているのです。残念ながら。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言252です。
 自然赋与人们的不调和还很多,人们自己萎缩堕落退步的也还很多,然而生命决不因此回头。无论什么黑暗来防范思潮,什么被惨来袭击社会,什么罪恶来亵渎人道,人类的渴迎完全的潜力,总是踏了这些蒺藜向前进。
 Zìrán fùyǔ rénmen de bù tiáohé hái hěnduō, rénmen zìjǐ wěisuō duòluò tuìbù de yě hái hěnduō, rán'ér shēngmìng jué bù yīncǐ huítóu. Wúlùn shénme hēi'àn lái fángfàn sīcháo, shénme bèi cǎn lái xíjí shèhuì, shénme zuì'è lái xièdú réndào, rénlèi de kě yíng wánquán de qiánlì, zǒng shì tàle zhèxiē jílí xiàng qiánjìn.
 「自然が人間に与える不調和はいろいろ多い、人間が自分で委縮し堕落し退歩することもいろいろ多い。けれども生命は決してそのために後戻りはしない。いかなる暗黒が思潮を邪魔しようとも、いかなる悲惨が社会を襲おうとも、いかなる罪悪が人道を涜そうとも、人類の完全を喝迎する潜力は、とにかくこれらの障害物を踏み越して前進するのだ。」
 
 今日の論語一日一章は、論語17-5(論語巻第九 陽貨第十七篇 5章)です。
 公山不擾以費畔、召、子欲往、子路不説曰末之也已、何必公山氏之之也、子曰、夫召我者、而豈徒哉、如有用我者、吾其爲東周乎、
 Gōng shān bù rǎo yǐ fèi pàn, zhào, zi yù wǎng, zilù bù shuō yuē mò zhī yě yǐ, hébì gōng shān shì zhī zhī yě, zǐ yuē, fū zhào wǒ zhě, ér qǐ tú zāi, rú yǒuyòng wǒ zhě, wú qí wèi dōngzhōu hū,
 (公山不擾以费畔,召,子欲往,子路不说曰末之也已,子曰,夫召我者,而岂徒哉,如有用我者,吾其为东周乎,)
 「公山不擾、費を以て畔(そむ)く。召(そむ)く。子往かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして曰わく、之(ゆ)くこと末(な)きのみ。何ぞ必らずしも公山氏にこれ之かん。子曰わく、夫れ我れを召く者にして、豈に徒(ただ)ならんや。如し我れを用うる者あらば、吾れは其れ東周を為さんか。」
 (公山不擾が費の町に拠って叛いたとき、先生をお招きした。先生は行こうとされた。子路はおもしろくなくて、「おいでになることもないでしょう。どうして公山氏などのところへ行かれるのです。」というと、先生はいわれた、「ああしてわたくしを呼ぶからには、まさか形だけでもなかろう。もしだれかわたくしを用いてくれる人がいるなら、わたしはまあ東の周を興こすのだがね。」と。)