魯迅箴言日記 2020/01/15 新年や鶯鳴いてほととぎす

 今日は2020年1月15日、水曜日です。今朝は、五所川原サンルートパティオホテルにいます。10時からつがる市役所で会議です。時間に間に合うかどうかわかりませんが、1時からの県議会委員会室での会議にも参加するつもりです。

 結局、会議が2時間以上もかかり、川柳吟行会には40分遅れて参加しました。投句は締め切られていて、選句からの参加となりました。それでも、5時からの弁慶の6階での懇親会には、先に帰った恵子さん以外の6人が参加し、とても和やかで楽しいものでした。帰りにとり平によって帰りました。鎌田夫妻にも新年の挨拶をしました。

 

 今日の子規歳時は、「新年や鶯鳴いてほととぎす」(明治30年)です。柳原極堂が、子規を中心にした俳誌ホトトギスを松山で創刊したのが、明治30年1月15日でした。ホトトギスは翌年21号から虚子が東京で発行しています。

 

 今日の魯迅箴言は、箴言363です。

 我们先前的批评法,是说,

    这苹果有烂疤了,要不得,

    一下子抛掉。

    然而买者的金钱有限,岂不是大冤枉,

    而况此后似乎最好还几处没有烂,

    还可以吃得

    ……

    所以,我又希望刻苦的批评家来做

    剜烂苹果的工作,

    这正如”拾荒”一样,

    是很辛苦的,但也必要,而且大家有益的。

 我々のこれまでの批評の仕方は、こうだった。

 「この林檎には傷があるから、役にたたない」といって、

 ぽんと捨ててしまう。

 しかし買う方はいくらも金をもっていないのだから、

 甚だ迷惑千万である。

 まして今後はもっと貧乏になるのだ。

 だから、今後は次のようなことを言い添える方が一番いいと思われる。

 もしも芯まで腐っていなかったら、

 「このリンゴにはきずがある。しかしこのへんは腐っていないから、

 まだ食える」というのだ。

 こういう風にやれば、翻訳の良し悪しは明らかになり、

 そして読者の損失も少なくて済むわけである。

 ……

 だから、私は根気の良い批評家が腐ったリンゴをえぐる仕事をしてくれることを希 望する。それはちょうど「落穂拾い」と同様、甚だ辛抱のいることであるが、必要な、しかもみんなに有益なことでもある。