今日は6月7日、月曜日です。新報を配布し、駒田さんの葬儀にいってきました。簡素な式で、少し寂しい葬式でした。
今日の子規歳時は、「夏痩や枕にいたきものの本(明治28年、1895年)」です。
第90条〔決算審査、会計検査院〕
(1)国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。
(2)会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。
今日の魯迅箴言は、箴言365日の第363日目「我々のこれまでの批評の仕方は、」です。
原文;
我们先前的批评法,是说,这苹果有烂疤了,要不得,一下子抛掉。然而买者金钱有限,岂不是大冤枉,而况此后似乎最好还是添几句,倘不是穿心烂,就说;这苹果有着烂疤了,然而这几处没有烂,还可以吃得 ……
所以,我又希望刻苦的批评家来做剜烂苹果的工作,这正如”拾荒”一样,是很辛苦的,但也必要,而且大家有益的。
拼音;
訳文;
我々のこれまでの批評の仕方は、こうだった。「このリンゴにはきずがある。役に立たない」と言って、ポンと捨ててしまう。しかし、買う方はいくらも金をもっていないのだから、これでは甚だ迷惑千万である。まして、今後はもっと貧乏になるのだ。だから今後は次のようなことを言い添える方が一番よいように思われる。もしも、芯まで腐っていなかったら、「このリンゴにはきずがある。しかし、このへんは腐っていないから、まだ食える」というのだ。……
だから、私は根気のよい批評家が腐ったリンゴをえぐる仕事をしてくれることを希望する。それはちょっと「落ち穂拾い」と同様、甚だ辛抱のいることであるが、必要な、しかもみんなに有益なことである。