魯迅箴言日記 2022/05/25 カナリヤの卵腐りぬ五月晴(明治35年、1902年)

 今日は5月25日、木曜日です。今朝は5時に起き、8時までに日課を終え、新報の集金の記帳、川柳教室の宿題のプリントアウトを終え、9時40分に家を出ました。10時から青柳事務所で県民エナジーと生協の合同会議、12時過ぎに終わり、広瀬さんと近くのラーメン屋へ。蓮心寺へ7月1日のポスターとチラシを持っていき、そのままふれあいの館で一艘川柳教室、宿題も席題もなかなかいい句ができません。3時に帰宅し、ブログの更新と郵便物の整理をして、5時半からの会議に行く。7時には英会話の顔見世でアウガへ。今日も忙しい。

 今日の子規歳時は、「カナリヤの卵腐りぬ五月晴(明治35年、1902年)」です。

 ここで、五月は陽暦では六月の梅雨の晴れ間だが、五月晴には陽暦5月の太陽のイメージである。ここでは陰暦で、鳥籠を照りつける太陽により、梅雨の晴れ間の湿度が高いため、卵が腐ったことを表現しています。

 今日の魯迅箴言は、箴言365-36「奴隷が主人になると、」です。

 奴才做了主人,

   是譎不肯废去”老爷”称呼的,

   他的摆架子,

   恐怕比他的主人还十足,

   还可笑。

 奴隷が主人になっても、

 「旦那さま」という呼び方を決してやめようとはしないのです。

 その威張り方も、恐らく主人よりももっと完全で、

 もっと滑稽なのです。