中国で忘れ物をみつけた最後の夜

 9日に大連に到着して中国に足を踏み入れてから、早いものでもう17日がやってきてしまい、今夜が最後の夜となりました。私はいま大連の駅わきの三つ星ホテルの十九階の部屋でひとりパソコンに向かっています。
 今回の旅は乗り物との戦いの連続でした。飛行機、電車、バス、タクシー、自家用車がその乗り物でした。飛行機は大連と長春の往復の国内便でした。最大の難関は、私の中国語ができないことでした。私の忘れ物のひとつはこの中国語でした。旅を楽しく、自分のためにするには、旅先の言葉を理解することだと初めてわかりました。だいたい通じた、だいたい理解したというのではだめだと気づいたのです。中国に来て、中国語がわからないために、言葉の意味に囚われるあまり、注意力が散漫になり、大事なことや大事でないけれどもものごとの本質につらなることを見逃す恐れがあるからです。
 電車の中で、つくづく自由について考えさせられました。今回の旅で瀋陽から北京、北京から長春へ特急電車(D車)を利用しました。瀋陽から北京まで4時間の車中のうち前半2時間しか座席指定がありませんでした。北京から長春までは6時間、完全に立ち席でした。わたしは今回の旅で漱石の「三四郎」をポケットに携帯してました。指定席に座っていた二時間、文庫本を開くとすぐ眠くなるのでした。読書の自由が保障されている指定席の方が本を読めないで、身動きできないほど不自由な空間しかとれない立ち席のほうがたくさん本を読めるということでした。読みたい本を読めるという自由は、他にすることができないという不自由さ中でこそ貫徹されるということでした。瀋陽までの後半の2時間と長春までの6時間のさながら辛苦の中で私はもう一つの忘れ物に気づいたのでした。私は高校三年の夏休み、受験勉強をやめ、憑かれたように漱石全集を読んだのでした。「三四郎」を読みながら、十代後半の感動が甦って、小説を読むことの感動を久しく忘れていた自分に気づいたのでした。つまり、いまの私には本を読み、小説を書くという自由しかないという不自由さを如何に自覚し、それを楽しむかにかかっているということがわかったのです。
 9日に長春に着いて、空港から出迎えてくれた友人の車で、友人の家まで向かう途中、銀行で預金をおろし、スーパーで買い物をしに市内を走ったとき、相変わらず車も歩行者もルール無視の交通戦争が続いているということでした。自分の目的を果たすためには、どんなルールも無視していいという自由があるかのようなのです。わずか50メートル先に歩道と信号があるのに、道路の対岸へ直接行こうとする無謀さが中国人にはあるようです。一方、運転者も命がけで、いかに自分の目的地にいち早く行けるのか、先を競って割り込みをするのです。いつ事故を起こしても不思議でないと思います。それは、大連も、集安でさえ、さらに瀋陽においても、もちろん北京でも、一層強く感じたのでした。そんなわけで、中国には私の居場所はないという結論に至ったことでした。旅と居住の違いのなかで、私には居住地という選択も忘れ物もなかったということも理解したのでした。
 今回の旅の収穫は、バスの旅でした。長春から集安、集安から瀋陽、そして今日の大連から旅順と三度、バスを利用しました。私はバスでは本を読めません。したがって、どうしても同行者が必要です。集安では、高句麗を髣髴とさせる好大王碑を見ることができましたし、瀋陽でも故宮博物館を観ることができ、世界遺産登録の二か所の名所を訪れることができたのです。
 もう一つの忘れ物は、やはり魯迅でした。北京でタクシーの中から魯迅博物館を発見し、そこで魯迅という文学者の全貌が展示されていました。簡素な住まいの中心に机と椅子が据えられただけの魯迅の書斎に触発されたのは、静かな思索ができる環境のなかで魯迅の作品は書かれたということがわかりました。魯迅の小説を読み直すことの必要性を感じたのでした。魯迅現代日本に投影させて読み直すことが求められているのに気づいたのです。たくさんの収穫を得て、いま中国の旅は終わろうとしています。
 明日は、東京でもう一度、ゆっくりこの旅のことを考えることにします。