万葉集と詩経

 孔子論語の勉強をしていて、調べることがあって白川静著「詩経-中国の古代歌謡」を読んでいる。
 この本によれば、人類の歴史がその黎明期をむかえるころにかがやかしい古代歌謡の時代があったとし、その代表的なものにインドの『リグ・ヴェーダ』の聖歌、ホメロスの詩、『聖書』の詩篇とともに
中国では『詩歌』があると。とくに中国の古代王朝・西周時代の『詩歌』は他の古代歌謡と異なり、民衆の生活の中から生まれたもので、歴史的にははるかに後代の日本の『万葉集』と相似た性格をもつ歌集だという。
 『詩経』と『万葉集』は民謡から展開した歌謡であり、その点では、特定の選ばれた司祭者や預言者、あるいは語り部的なホメリダイの手による他の古代歌謡とはそもそも成立が異なり、ひろい発生基盤をもつとされる。
 したがって、民謡の成立は当然に民衆の成立を前提とする。人類の歴史において、古代の氏族社会が発展・消長するなかで古代王朝が氏族の集団の上に築かれる。氏族社会の原始的な歌謡は、あくまで氏族社会内部での主として祭祀や儀礼などに関するものであった。
 有力な豪族の連合を基礎として成立した古代王朝が集権化の傾向を強めるに及んで、群小の氏族社会は抵抗力を失い、人民は広大な土地とともに古代王朝の所有となり、中央の権力のもとにある豪族の領主のもとに直属する民衆となる。
 こうして領主のもとに直属する民衆は、公民となり、それまでの氏族の閉鎖性から解放され自由となったが、同時に強力な政治的支配への従属を強いられることとなった。この民衆が獲得した自由のよろこびと、新しい時代へのおそれが、古代歌謡を成立させることになった。
 中国や日本の古代的氏族社会の特徴は、祭祀共同体として絶対的なおそれをもってつかえていた神々(現人神も含め)への服従と呪縛であった。氏族社会の解体によって、民衆は自由を得、感情は解放され、愛とかなしみに身をふるわせることができるようになった。
 民衆が新しく見出した自然は新鮮であり、民衆の感情は鮮烈であった。まさに人類が歴史上初めて経験する新生の時代が古代王朝の世紀だったといえる。
 こうして民衆は、共感を求めあいながら、そのよろこびとかなしみを歌に託した。それが中国では『詩歌』であり、日本では『万葉集』であった。
 これらは、他の古代歌謡のように、深い哲学的な瞑想や勝利へのよろこび、あるいは運命にたいするおそれを歌うものではなかったが、古代歌謡の本質として民衆の生活感情のゆたかな表現につながったものといえる。
 歌謡の原質は、人々が神々の呪縛の中にある時代に発したものの、その実際の成立は、一般的には表現への自由な衝動に期限すると言われている。
 そのことは、『詩経』の序で「詩は志の之くところ」とされ、『古今集』の序にはそれを承けて、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」とある。このように、人びとが勘定の自由を獲得するためには、まず神々からの解放、具体的には、その閉鎖的な氏族制の絆から解放されることが必要だった。だから、それ以前には、歌謡は神々のものであり、神につかえるためのものであったという。
 歌の語源は、「訴ふ」にあり、歌とは神を責めて呵し、神に訴えるものであったという。歌という字の基本要素は可であり、歌は古代には謌(訶)とかかれたようだ。すなわち、歌は呵する声を意味した。
 また、歌謡の謡は古くは、徒歌、すなわち伴奏を用いない歌である。さらに、謡の意味には、神のお告げもあり、原始歌謡では神との対話の意味もあった。したがって、原始の歌謡には神への呼びかけの意味もあったのである。その点では、本来呪歌でもあった。
 このように、歌謡は神にはたらきかけ、神に祈ることばに起源しているのはまちがいはない。それが、ことだま信仰につながった。
 『万葉集』には山上憶良貧窮問答歌がある。これらの歌が、中国文学のなかに素材を求めたものであることが知られている。かつて、六朝・隋・唐の時代の詩人たちはそれぞれ類書のようなものを座右にして詩文を書いたといわれているが、山上憶良もおそらく唐人の手法をまねたものだといわれている。山上憶良がそういう歌をつくったのには、当時の日本に多少なりとも現実的根拠があったものと思われる。
 そもそも『万葉集』の時代には、人びとは貧しさに怒りをもつことがあまりなかったようである。そのように、この国の人々には、久しく貧しさを疑うことを知らなかったといわれる。
 一方、中国の『詩経』の詩篇の時代には、生きることも困難な状態の中で、悲涼と絶望の果てにやがて流離の詩さえも生まれているのである。