詔と武の音楽の違い

論語」の八佾03篇に次の章があります。
 「03-25 子謂韶。盡美矣。又盡善也。謂武。盡美矣。未盡善也。」
 これの読み下し文は次の通りです。
 「子、韶(しょう)を謂う。美を尽(つく)し、また善を尽せり。武(ぶ)を謂う。美を尽せり、いまだ善を尽(つく)さず。」
 ここの日本語訳はこうです。
 「先生(孔子)が詔の音楽を批評された。『美しさ十分だし、さらに善さも十分だ。』また、武の音楽を批評された。『美しさは十分だが、善さはまだ十分でない』」(金谷治論語岩波文庫
 ここで、詔の音楽とは、堯から位を譲り受けた舜の音楽のことです。
 また、武の音楽とは、殷の紂を伐った周の武王の音楽のことです。孔子はここで、周の音楽は武力を用いた統一によるものであり、舜の平和的な治世の音楽には及ばないとしているのです。
 ここで、舜については広辞苑によるとつぎのようです。
 「舜帝;中国の古代説話に見える五帝の一人。顓頊(せんぎょく)の6世の孫。虞の人で、有虞氏という。父は舜の異母弟の象を愛し、常に舜を殺そうと計ったが、舜はよく両親に孝を尽くした。堯の知遇を得て摂政となり、その2女娥皇と女英を妃とした。堯の没後、帝位につき、天下は大いに治まった。即位後18年、南方を巡幸、蒼梧の野で死んだ。大舜。虞舜。」(広辞苑
 ついですから、周の武王はついてはこうです。
 「周王朝の祖。姓は姫(キ)。名は発。文王の長子。弟周公旦を補佐とし、太公望を師とし、殷の紂王(チユウオウ)を討ち天下を統一、鎬京(コウケイ)を都とした。在位一○年余。」(広辞苑
 さらに、殷についても次の通りです。
 「中国の古代王朝の一。「商」と自称。史記の殷本紀によれば、成湯王が夏(カ)を滅ぼして創始(前一六世紀頃)。三○代、紂(チユウ)王に至って周の武王に滅ぼされた(前一一世紀頃)。殷墟の発掘と甲骨文の研究の進歩によって、その歴史も明確になってきた。」(広辞苑
 孔子舜帝と武王の弟で魯を興した周公旦を尊敬していたことは論語を読むとよくわかります。