小説を書く合間に、曲阜そしてアフリカへ

 十八日高校野球の応援から帰ってすぐ、一階の玄関脇の居間に連なる洋間に置いてあったデスクトップパソコン一式を一階の寝室に使っている和室六畳に移動した。八月のねぶた見物に帰省する次男一家を迎えるため、撤去を女房に要求されたためだった。
 その夜から、さっそく夜半の執筆作業は、その和室で行うことになった。朝と夕食後の十一時まではこれまでどおり、二階の書斎の和机で読書をし、脇のノートパソコンをつかって作業をすることにした。
 日中は自転車で古川の事務所に出かけ、原発・核燃サイクルとその原子力防災にかかわるライフワークのまとめを中心にやり、夕方、また浪館通りを自転車で戻るという日課にすることにした。
 これで、誰にも気兼ねせずに、朝起きてから夜寝るまで、自分のしたいことができる体制が整ったことになる。
 早速、十八日の深夜までかけて、長部日出雄の「津軽世去れ節」を研究材料に文体、語句、津軽弁の表記法の勉強をやり終えることができた。そのまま部屋に蒲団を敷いて、就寝したのは午前三時だった。
 そんなことで、昨日の夜から遙(締切八月五日)用に小説『ナリタブライアンはもういない』を書き始めることができた。八月三日から福島県飯舘村原発事故放射能影響調査に行くので、八月二日までに完成しなければならないが、あと二週間、ナリタブライアンに集中することにした。
 福島から帰って来たら、こんどは北狄360号にだす小説の執筆が待っている。三週間かけて仕上げて、下旬に孔子のふるさとの中国・曲阜に行き、戻ったら今度は九月の一カ月、時雨庵にでも隠遁して『ねぶた師平蔵』に専念するつもりだ。10月は文芸講座の講師の予定も控えているし、山梨文学賞への応募もしてみたいと思う。あせらず、一つ一つ山を乗り越えていきたいと思う。それから十一月にはアフリカに行って、冬のサバンナでカバとライオンを見にみたいと思っている。
 魯迅じゃないが、夢から醒めても、次に進むべき路があるというのは、とてもいいものだとつくづく思っている。