今日は12月19日長島小学校6年7組の会忘年会です

 早いもので、今日は19日金曜日です。今年もあと12日を残すのみとなりました。毎日、魯迅箴言漬けになっています。こだわりは今年いっぱい続きそうです。
 17日が水曜会(蔵)、18日が高校同期の4+1人会(菜のはな)、そして今日が長小6・7会(侍)と三日連続で忘年会が続きます。今年はあと21日の陽の会、そして22日の一二三会の忘年会(まだ未確定)で今年は終わりです。そんなわけで、26日の浪岡の守る会の望年会にせっかくのお誘いでしたが、欠席することを今朝電話しました。
 今年から来年にかけては、飲み会は避けて、できれば小説に専念したいと思っています。
 
46 农夫耕田,泥匠打墙,他只为了米麦可吃,房屋可住。自己也因此有益之事,得一点不亏必的糊口之资,历史上有没有乡下人列传或、泥水匠列传,他向来就并没有想到。 (農夫が田を耕し、左官が壁を塗るのは、食べられる米や麦、住める家屋に、みずからもその恩恵にあずかりながら、何のやましい気持もなく生活費を得るためで、歴史上に「田舎者列伝」や「左官屋列伝」があるかどうかなど、これまで考えたことすらあるまい。)
47 我们的知识很有限,谁都愿意听听名人的指点,但这时就来了一个问题;听博识家的活好,还是听专门家的活好呢? 解答似乎很容易;都好。自然都好;但我由厉听了两家的种种指点以后,却觉得必须有相当的警戒。因为是;博识家的活多浅,专门家的活多悖的。 (我々の知識には限りがあるから、誰しも名の知れた人の教えに耳を傾ける。しかしここに、ひとつの問題が生じる――博識家と専門家、どちらの話を聞くのがよいのか? 答えは簡単そうにみえる――どちらもよい。むろんどちらもよいのだが、私は双方からいくつかの教えを聞いた経験から、それ相応の心構えが必要だと思う。なぜなら、博識家の話は底の浅いことが多く、専門家の話は独りよがりが多いからだ。)
48 专门家的话多悖的事,还得加一点申说。他们的悖,未必悖在倚专家之名,来论他所专门以外的事。 (専門家が独りよがりだということには、もう少し説明が必要だろう。彼らの独善は、必ずしもその専門についての話にあるのではなく、むしろ専門家の名をいいことに、専門外まで論じるところにある。)
49 名声的起灭,也如光的起灭一样,起的时候,从近到远,灭的时候,远处倒还留着余光。 (名声の興廃は、光のそれと同じく、興るときは、近くから遠くへとひろがり、廃れるときは、かえって遠くに余光を留める。)
50 古人说,不读书便成愚人,那自然也不错的。然而世界却正由愚人造成,聪明人决不能支持世界,尤其是中国的聪明人。 (古人が、書を読まねば愚人になると言ったのは、むろん誤りではない。だが世界は、まさにその愚人が造り上げたのであり、利口者は、けっして世界を支えることはできない。――なかんづく中国の利口者は。)
51 天才并不是自生自长在深林荒野里的怪物,是由可以使天才生长的民众产生,长育出来的,所以没有这种民众,就没有天才。 (天才は、深い林や荒野に自生して育つ怪しげな生き物ではけっしてなく、天才を生み育てることのできる民衆によって、産み出され、育てられるものであります。でありますから、そのような民衆なくしては、天才もまた存在しないのです。)