今日の子規歳時は、
すり鉢に薄紫の蜆かな (1893年、明治26年2月22日)
この春から謡曲が非常に好きになったと子規が碧梧桐へ手紙を寄せたのは、明治25年2月のことだったようです。たびたび同郷の小川、天岸らを招いて聴聞したり、自分で心慰さまぬとき、声を出さずに謡ったといっています。
今日から、論語 巻第三 第6篇 雍也第六 です。雍也第六は、1節から30節までです。
81 无论忤逆,无论孝顺,小孩子多不愿意「诈」作,听故事也不喜欢是谣言。这是凡有稍稍留心儿童心理的都知道的。 (不孝者でも、不孝者でも、子どもはほとんど「詐(うそ)」を嫌い、物語を聴いても、根も葉もない話は喜ばない。これは、子どもの心にそっと耳を傾ける者ならば、およそ知っていることである。)
82 小的时候,不把他当人,大了以后,也做不了人。 (幼いときに人として扱われなければ、大人になっても人として生きられない。)
83 驯良之类并不是恶德,但发展开去,对一切事无不驯良,却决不是美德,也许简直倒是没出息。 (従順なのは、悪徳ではない。しかし、それが嵩じて何にでも従順なのはけっして美徳ではなく、いわば単に意気地がないだけだ。)
84 野牛成为家牛,野猪成为猪,狼成为狗,野性是消失了,但只足使牧人喜欢,于本身并无好处。人不过是人,不再来杂着别的东西,当然再好没有了。倘不得己,我以为还不如带些兽性,如果合于下列的算式倒是不很有趣的;人+家畜性=某一种人 (野牛は家畜牛に、猪は豚に、狼は犬になって野生は失われた。だが、それは牧人を喜ばせたにすぎず、動物自身にはなんのいいこともなかった。人は人にすぎず、混ざりけなしでいられるに越したことはない。しかし、それが叶わぬなら、いくらかの獣性を帯びるほうがまだましだと思う。次のような算式にあてはまるようでは、興醒めである。人+家畜性=ある種の人間 )
85 叫人整年悲愤,劳作的英雄们,一定是自己毫不知道悲愤,劳作的人物。在实际上,悲愤者和劳作者,是时时需要休息和高兴的。 (年がら年中、人に悲憤と労働を強いる英雄たちは、みずからはきっと、悲しみ憤ることも、働くことも、露知らぬ人間だろう。現実にあっては、悲しみ憤り、働く者たちは、つねに休息と喜びを必要とするのだ。)