今日の子規歳時は、
死はいやぞ其きさらぎの二日灸 (1892年、2月23日)
子規の気力の強いのには全く驚かされます。時には苦痛に耐えず声をあげて泣いたりもしたようですが、普通の人には到底勝てぬ病を克服し、冗談もいえば笑い話もし、生死を度外においていたと、宮本主治医の話です。
今日の論語は、雍也第六の2節です。
6-2 仲弓问子桑伯子,子曰,可也简,仲弓曰,居敬而行简,以临其民,不亦可乎,居简而行简,无乃大简乎,子曰,雍之言然,
(仲弓、子桑伯子を問う。子曰わく、可なり、簡なり。仲弓が曰わく、敬に居て簡を行い、以て其の民に臨まば、亦た可ならずや。簡に居て簡を行う、乃ち大簡なること無からんや。子曰わく、南の言、然り。)
87 只要思想未遭锢蔽的人,谁也喜欢子女比自己更强,更健康,更聪明高尚,――更幸福;就是超越了自己,超越了过去。 (思考が縛られていない人は誰しも、わが子が自分よりもさらに強く、健康で、聡明・高尚に――さらに幸福になることを喜ぶ。すなわち、自分を超え、過去を乗り超えていくことを。)
88 至于幼稚,尤其没有什么可羞,正如孩子对老人,毫没有什么可羞一样。幼稚是会生长,会成熟的,只不要衰老,腐败,就好。 (幼稚は、なんら恥じることがないのと同じです。幼稚なら、成長し、成熟していくことができます。ただ、老いぼれ腐敗しなければ、それでいいのです。)
89 孩子长大,倘无才能,可寻点小事情过话,万不可做空头文学家或美术家。 (子どもが成長しても才能がないようならば、小さな仕事を探して活きるとよい。万が一にも、中身のない文学者や美術家になってはならない。)
90 希望是本无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路。 (希望は、もともとあるものとも、ないとも言えない。それはまさに地上の路のようなものだ。本来、地上に路はなく、歩く人が増えれば、そこが路になるのである。)