今日は、2月26日、2月もあと3日となりました。

 今日は2月26日木曜日です。今月は28日の土曜日までですので、あと3日となりました。時の流れは実に早いものです。今朝はいい天気です。朝日が窓に差し込んで眩しいです。昨日はちらほら粉雪、綿雪が落ちていましたが、今日は青空がうすく広がっています。私の心模様にぴったしです。

 今日の子規歳時は、

 板塀や道窮って梅の花 (1897年、明治30年2月26日)

 子規は手紙一本出すのにも自分の町名番地を明記したそうです。たびたび手紙を出す人の所へでも名前ばかり書いて出すことはなかったのです。自分の手紙に姓や雅号ばかり書くのは敬意を失すると言っていたそうです。

 今日の論語は、雍也第六の5節です。

 6-5 原思为之宰,与之粟九百,辞,子曰,母,以与尔临里乡党乎,
(原思、これが宰たり、これに粟九百を与う。辞す。子曰わく、母かれ、以て爾が隣里郷党に与えんか。)

 今日の魯迅箴言は、箴言116から箴言120までです。

116 选本所显示的,往往并非作者的特色,倒是选者的眼光。眼光愈锐利,见识愈深广,选本固然愈准确,但可惜的是大抵眼光如豆,抹杀了作者真相的居多,这才是一个文人浩劫(選集がはっきり示すところは、往々にして作者の持ち味ではなく、むしろ選者の眼光であります。眼光が鋭いほど、見識が深く広いほど、選集はいよいよ適確になるのです。だが惜しいかな、たいていの眼光は豆粒ほどに小さく、作者の真の姿を抹殺してしまうことが多いのです。これぞまさに、「文人の大厄」というものでしょう。

117 还有一样最能引读者人没途的,是摘句。它往往是衣裳上撕下来的一块绣花,经摘取者一吹嘘或附会,说是怎样超然物干,读者没有见过全体,便也被他弄得迷离倘恍。(同様に、読者を難なく迷路に引きこむのは、「抜粋」であります。それはほとんど、まるで衣装から引き裂かれた刺繍の花模様のようなもので、引き裂いた者がひとたび誇張し、こじつけて、その花がいかに超然として俗塵にまみれていないかを説けば、読者は全体を見渡せずに、翻弄されて煙に巻かれることになるのです。

118 创作难,就是给人起一个称号或诨名也不易。假使有谁能起颠扑不破的诨名的罢,那么,他如作评论,一定也是严肃正确的批评家,倘弄创作,一定也深刻博大的作者。(創作は難しいものです。人に称号や渾名をつけるのでさえ容易ではありません。たとえば誰か、ぐうの音も出ないような渾名をつけることができる人がいるとしたら、彼が批評すれば、必ず厳しく的確な批評家となるだろうし、なお創作を手がければ、必ず豊かで味わい深い作者になるだろう。

119 人感到寂寞时,会创作;一感到干净时,却无创作,他已经一无所爱。创作总根于爱。 (人は寂寞を感じるとき、創作に向かうものです。心がすっきりすると、創作意欲はなくなります。彼にはすでに愛するものがないからです。このように、創作はすべて愛に根ざしているのです。

120 「白描却并没有秘诀。如果要说有,也不过是和障眼法发反一调;有真意,去粉饰,少做作,勿卖弄而已。(「白猫(水墨画)」にまったく秘訣はありません。あるとすれば、ただ人の目をごまかすのとは逆の方法があるだけです。真意(まごころ)をこめ、粉飾を捨て、作為を減らして、見せびらかさない、ただそれだけなのです。)