7月3日、金曜日です。

 7月3日です。今日は金曜日です。昨日は、寺山修司生誕80年記念で12日の公立大学での寺山作品の演劇上演の件で三沢から来た英明に会い、ポスターとチケット10枚を請負い、午後の9条の会で金澤先生をはじめ前田、田村、山下の諸兄に買ってもらいました。夕方、英明と一緒に港町の良夫の所へ行って、7枚目のチケットを買ってもらいに行きました。その後、綺羅で飲んで、電車で帰る英明と別れ、とり平へよってハツと生野菜を食べて帰りました。焼酎のボトルを新たにいれてきました。
 午前中、寺山演劇のポスター貼りのついでに全労済へ寄って、火災共済の契約変更に行ってきました。家を2000万、家財100万で契約延長しました。これでひと安心です。各種税金、健康保険、介護保険、自動車の車検、自動車税、車の任意保険等々、年間40万円はかかります。年200万円の年金生活者にとって可処分所得のこの額は大きいものです。これからはできるだけ交際費をきりつめなければなりません。自由に生きるには、しがらみをはなれ、できるだけ簡素にひっそりとゆるやかに生きる必要があります。
 午前4時になりました。知らないうちに、外が明るくなりました。さっきまでの暗闇がうそのようです。

 今日の子規歳時は、
 木の上にひとり枇杷くふ童かな (1896年、明治29年7月3日)
 二度目の帰省は20年7月、この時勝田主計(のち大蔵・文部大臣)の紹介で、三津に大原其戎を訪ね俳句について語ったのでした。これが子規の俳句の道に進む端緒となったのです。その日柳原極堂も同行したのでした。

 今日の魯迅箴言は、箴言121です。
  散文的体裁,其实是大可以随便的,有破绽也不妨。
 做作的写信和日记,恐怕也还不免有破绽,
 而一有破绽,便破灭,便破灭到不可收拾了。
 写其防破绽,不如忘破绽。
 Sǎnwén de tǐcái, qíshí shì dà kěyǐ suíbiàn de, yǒu pòzhàn yě bùfáng.
 Zuòzuo de xiě xìn hé rìjì, kǒngpà yě hái bùmiǎn yǒu pòzhàn,
 ér yī yǒu pòzhàn, biàn pòmiè, biàn pòmiè dào bùkě shōushíle.
 Xiě qí fáng pòzhàn, bùrú wàng pòzhàn.
 「散文の体裁は、じつは自在に書けばいいのであって、破綻があってもかまわない。作為的に書いた手紙や日記も、おそらく破綻は免れず、一度破綻すれば、収拾不能なほどに壊れてしまうだろう。破綻を避けようとするより、破綻を忘れるほうがいい。」
 散文;散文 sanwen 体裁;体裁 ticai 自在;随便 suibian 破綻;破绽 pozhan 
  作為的;做作的 zuozuode 手紙;信 xin 日記;日记 riji 恐らく;恐怕 kongpa 
 収拾;收拾 shoushi 破壊;破灭 pomie 防ぐ;防 fang

 今日の論語は、論語8-6(論語巻第四 泰伯第八篇 6章)です。
 曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也、
 Céng zǐ yuē, kěyǐ tuō liù chǐ zhī gū, kěyǐ jì bǎi lǐ zhī mìng,
 lín dà jié ér bùkě duó yě, jūnzǐ rén yǔ, jūnzǐ rén yě,
曾子曰わく、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人か、君子人なり。」(曾子がいった、「小さいみなしごの若君をあずけることもできれば、諸侯の国家の政令をまかせることもでき、大事にあたってもその志しを奪うことができない、これこそ君子の人であろうか、確かに君子の人である。」と。)(曾子曰,可以讬六尺之孤,可以寄白里之命,临大节而不可夺也,君子人与,君子人也,)