12月20日です。もうすぐクリスマスです。

 昨日19日昼、今年最後のスタンディングアピールには寒風吹きすさぶなか、50人近くの人が集まっていました。会議に来た福士さんの顔も見えました。いつものように金澤先生はじめ、前田、杉村、田村、三上さんたちのすがたもありました。集会のあと、D200のレンズをもって、キタムラへ修理に行きましたが、結局、その場では直りませんでした。家に戻り、レンズキャップ、内蓋、レンズ収納袋をレンズ吹きアクセサリーなどをアマゾンに注文しているうちに夜になってしまい、あとは焼酎を飲み、鰊を食べて9時前に眠ってしまいました。12時間近く、眠ったことになります。
 今日20日は11時から、地域経営学会にでかけます。あとは机に向かって一日を過ごすつもりです。

 今日の子規歳時は、
 湯婆燈炉室あたたかに読書哉 (1899年、明治32年12月20日)
 明治33年12月、ホトトギスに7日間の「病牀読書日記」を子規は書いています。もし一年間の読書日記を課せられたら、来年の今ころは「博覧博識の大学者となりてあらん」と記しています。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言162です。
 天下本无所谓闲事,只因为没有这许多遍管的精神和力量,于是便只好抓一点来管。为什么独抓这一点呢?自然是最和自己相关的,大则因为同是人类,或是同类,同志;小则,因为是同学,亲戚,同乡,――至少,也大概叨光过什么,虽然自己的显在意意识上并不了然,或者其实了然,而故意装痴作傻。
   Tiānxià běn wúsuǒwèi xiánshì, zhǐ yīnwèi méiyǒu zhè xǔduō biàn guǎn de jīngshén hé lìliàng, yúshì biàn zhǐhǎo zhuā yīdiǎn lái guǎn. Wèishéme dú zhuā zhè yīdiǎn ne? Zìrán shì zuì hé zìjǐ xiāngguān de, dà zé yīnwèi tóng shì rénlèi, huò shì
tónglèi, tóngzhì; xiǎo zé, yīn wéi shì tóngxué, qīnqī, tóngxiāng,――zhìshǎo, yě
dàgài dāo guāngguò shèn me, suīrán zìjǐ de xiǎn zàiyì yìshí shàng bìng bùliǎo rán, huòzhě qí shí liǎo rán, ér gùyì zhuāng chī zuò shǎ.
 「世間にはいわゆる閑事など存在せず、ただあれこれ首を突っ込む気力も力もないため、ある一つだけをつかまえて関わるのである。なぜ、その一つなのか?それが自分と、もっとも関わりが深いからだ。大げさに言えば、人類のためであり、あるいは同類のためであり、同志のためでもある。小さく言えば、同級生、親戚、そして同郷人のためである。少なくとも、大概は何か恩を受けたことがあり、しかも自分の意識でははっきりしないで、あるいはその実、どんなにそれが馬鹿げたことかもわかってはいるのだが。」

 今日の論語一日一章は、論語14-17(論語巻第七 憲問第十四篇 17章)です。
 子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死、曰未仁乎、子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也、如其仁、如其仁、
 Zilù yuē, huángōng shā gōngzǐ jiū, zhào hū sǐ zhī, guǎnzhòng bùsǐ, yuē wèi rén hū, zǐ yuē, huángōng jiǔ hé zhūhóu, bù yǐ bīngchē, guǎnzhòng zhī lìyě, rúqí rén, rúqí rén,
 (子路曰,桓公杀公子纠,召忽死之,管仲不死,曰未仁乎,子曰,桓公九合诸侯,不以兵车,管仲之力也,如其仁,如其仁,)
 「子路が曰わく、桓公孔子糾を殺す。召忽これに死し、管仲は死せず。曰わく、未だならざるか。子の曰わく、桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如かんや、其の仁に如かんや。」
 (子路がいった、「桓公が公子の糾を殺したとき、召忽は殉死しましたが管仲は死にませんで(仇の桓公に仕えま)した。」「仁ではないでしょうね。」というと、孔子はいわれた、「桓公が諸侯を会合したとき武力を用いなかったのは、管仲のおかげだ。殉死をしないのは小さなことで、だれがその仁におよぼうか。だれがその仁に及ぼうか。」と。)