12月21日、月曜日です。今日は、浪岡と平賀に行きます。


 昨日(20日)は、11時から、地域経営学会にでかけ、学会で台湾の文化大学の先生の提起を聞いたあと、二次会にも参加し、先生方を送って、家に帰ったときは、午後の8時半でした。久しぶりに、英語と中国語にふれた一日でした。

 今日の子規歳時は、
 蕪村忌や蕪寄せたる浪花人 (1897年、明治30年12月21日)
 子規庵ではじめて蕪村忌を開いたのは明治30年12月24日でした。集まる者20人、庭前で写真を写したあと、運座を催したのです。大阪の水落露石から天王寺カブラを送って来たのでした。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言163です。
 在我们不从容的人们的世界中,实在没有那许多工夫来摆臭绅士的臭架子了,要做就做,与其说明年喝酒,不如立刻喝水;待廿一世纪剖拨戮尸,倒不如马上就他一个嘴巴。至于将来,自有后起的人们,决不是现在人即将来所谓古人的世界,如果还是现在的世界,中国就会完!
 Zài wǒmen bù cóngróng de rénmen de shìjiè zhōng, shízài méiyǒu nà xǔduō gōngfū lái bǎi chòu shēnshì dì chòu jiàzile, yào zuò jiù zuò, yǔqí shuōmíng nián hējiǔ, bùrú lìkè hē shuǐ; dài niàn yī shìjì pōu bō lù shī, dào bùrú mǎshàng jiù tā yīgè zuǐbā. Zhìyú jiānglái, zì yǒu hòu qǐ de rénmen, jué bùshì xiànzài rén jíjiāng lái suǒwèi gǔrén de shìjiè, rúguǒ háishì xiànzài de shìjiè, zhōngguó jiù huì wán!
 「我々の世界には余裕のない人間がいて、本当に臭い輩が鼻持ちならない話をしに来て、時間をとられてしまう。来年は酒を飲み、水を飲んでいた方がいいくらいだ。21世紀が切り開かれるのを待って、新しい突破口を見つけるしかないのだ。将来については、後代の人たちが、古い時代の人たちの世界を見習うことのないようにしなければ、現在の世界の状況をみるまでもなく、中国はもう終わりだ!」

 今日の論語一日一章は、論語14-18(論語巻第七 憲問第十四篇 18章)です。
 子貢曰、管仲非仁者興、桓公殺公子糾、不能死、又相之、子曰、管仲桓公覇諸侯、一匡天下、民倒于今受其賜、微管仲、吾其被髪左衽矣、豈若匹夫匹婦之爲諒也、自経於溝瀆而莫之知也、
 Zi gòng yuē, guǎnzhòng fēi rénzhě xìng, huángōng shā gōngzǐ jiū, bùnéng sǐ, yòu xiàng zhī, zǐ yuē, guǎnzhòng xiāng huángōng bà zhūhóu, yīkuāng tiānxià, mín dào yú jīn shòu qí cì, wēi guǎnzhòng, wú qí bèi fà zuǒ rèn yǐ, qǐ ruò pǐfū pǐ fù zhī wèi liàng yě, zì jīng yú gōu dú ér mò zhī zhīyě,
 (子贡曰,管仲非仁者兴,桓公杀公子纠,不能之,又相之,子曰,管仲桓公霸诸侯,一匡天下,民倒于今受其赐,微管仲,吾其被发左衽矣,岂若匹夫匹妇之为谅也,自经於溝瀆而莫之知也,)
 「子貢が曰わく、管仲は仁者に非ざるか。桓公、公子糾を殺して、死すること能わず、又たこれを相く。子の曰わく、管仲桓公を相けて諸侯に覇たり、天下を一匡す。民今に至るまで其の賜を受く。管仲微かりせば、吾れ其れ髪を被り衽を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝瀆に経れて知らるること莫きが若くならんや。」
 (子貢がいった、「管仲は仁の人ではないでしょうね。桓公が公子の糾を殺したときに、殉死もできないで、さらに仇の桓公を補佐しました。」孔子はいわれた、「管仲桓公を補佐して諸侯の旗がしらにならせ、天下をととのえ正した。人民は今日までもそのおかげをこうむっている。管仲がいなければ、わたしたちは散ばら髪で襟を左まえにした野蛮な風俗になっていたろう。とるにたらない男女が義理だてをして首吊り自殺でみぞに捨てられ、だれにも気づかれないで終わるというのと、管仲ほどの人がどうして同じにできようか。」と。)