3月9日、うつくしき鳥に餌をやる春日哉

 めっきり春めいてきた3月9日です。それでも朝方、思い出したように横殴りの雪が吹いていました。今日は自転車は無理かな、と思っていると雪はすぐに止み、路面には雪の痕すら残っていませんでした。
 今日も明日のデジカメ展搬入に間に合わせるために5点の写真(カバだけ)のプリント準備をしなければなりません。16日の青森市へのコミュニティパワー普及のための市長提言書のチェックと、11日の青森地裁の核燃訴訟の準備書面の最終チェックもしなければなりません。忙しい合間をぬって、新しい小説と書きかけの小説の続きを完成させるつもりです。
 女房が東京に行き留守で、ひとりで自由に家を使えるので、とても便利です。単身生活に不自由さはありません。考えてみれば、我が家も私たち夫婦と子供とその配偶者で10人であり、これに孫3人で13人の家族なのですが、順調にいけば9月までに孫が二人増える予定で、今年の秋には15人の大家族となるかもしれません。ロサンゼルスに4人、吉祥寺に3人、新浦安に3人、青森の花園に3人、そして浪館前田に2人という具合なのです。15人が健康でありさえすれば、金がなくても問題はないのです。しかし、課題はあるわけで、保育園の問題です。三男のところも、娘のところも共働きだから、これからうまれてくる孫は産休明けには即、保育園が必要となるのです。両親がそろっていまのところ健在な双方の実家の中間に居住している三男はまだしも、吉祥寺の娘のところは深刻です。夫の実家は新潟で、こっちは青森だから、おいそれとは子育て支援というわけにもいかないからです。子どもが生まれ、保育所に入所できなければ、娘は仕事をやめなければならなくなり、生活はくるしくなります。子育ては保育ではなく、就学前教育なのだ、ということを真剣に日本は考えなくてはならないはずです。ロスにいる長男のところは孫が4歳半と2歳だから、あちらも大変なのです。女房も2年前、出産前の1カ月あまり、当時長男が住んでいたニューヨークまで家事手伝いに行きました。それにしても、女房はよく4人の子の子育てを一人でやったものです。本当に、尊敬に値します。今ごろ気づいても遅きに失している、と言われそうですが、実感です。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言242です。
 在生活的路上,将血一滴一滴地滴过去,以饲别人,虽自觉渐渐瘦弱,也以为快活。
 Zài shēnghuó de lùshàng, jiāng xuè yīdī yīdī de dī guòqù, yǐ sì biérén, suī zìjué jiànjiàn shòuruò, yě yǐwéi kuàihuó.
 「生活の途上にあって、まさに血を一滴一滴流しながら向こうへ行って、別の人を養って、どんどん痩せて弱っていくのを自覚するのも、けっこう愉快なものだ。」

 今日の論語一日一章は、論語16-9(論語巻第八 李氏第16篇 9章)です。
 孔子曰、生而知之者、上也、學而知之者、次也、困而學之、又其次也、困而不學、民斯爲下矣、
 Kǒngzǐ yuē, shēng ér zhīzhī zhě, shàng yě, xué ér zhīzhī zhě, cì yě, kùn ér xué zhī, yòu qícì yě, kùn ér bù xué, mín sī wèi xià yǐ,
 (孔子曰,生而知之者,上也,学而知之者,次也,困而学之,又其次也,困而不学,民斯为下矣,)
 「孔子曰わく、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知る者は次ぎなり。困(くるし)みてこれを学ぶは又た其の次ぎなり。困みて学ばざる、民斯れを下と為す。」
 (孔子がいわれた、「生れついてのもの知りは一番上だ。学んで知るのはその次ぎだ。ゆきづまって学ぶ人はまたその次ぎだ。ゆきづまっても学ぼうとしないのは、人民でも最も下等だ。」と。)