7月15日、故郷へ入る夜は月よほととぎす

 今日は7月15日、土曜日です。今日は昼に成田先生と一緒に八戸へ鈴木達治郎教授の講演を聴きに行ってきます。おととい劉暁波氏が亡くなりました。残念です。
 鈴木教授の話は、とてもわかりやすいものでした。しかし、完全に政府から独立した第三者機関を設立し、そこが再処理や使用済み核燃料の処分方法核廃棄物の処分方法について答申・裁定をくだすという案には賛成しますが、いまの安倍内閣のもとでそれが実現するとは思えません。それに、再処理ではなく直接処分がいいとしながら、再稼働には問題が残っている(福島事故の教訓が生かされていない)としながらも、15%程度の原子力発電まで容認するというのは、そのため当面、再処理と直接処分を併用するという案は現実的かもしれませんが、現在六ヶ所再処理工場内にある冷却プールの3,000トンの使用済み燃料、再処理のアクティブ試験で回収された3トン以上のプルトニウム、それに230㎥に及ぶ高レベル放射性廃液の問題に対する回答があいまいでした。これらをそのままにして解決する方法が示されなかったのが、万一のことを考えたとき、青森県やひいては日本全体が被る甚大なリスクを免れる方策をしめしていないのが、やはり限界のような気がしました。
 その意味では、六ヶ所から遠く離れた長崎にいる鈴木教授は賢明なのかもしれません。なぜなら、鈴木教授は、使用済み燃料の貯蔵プールの冷却水喪失事故の恐ろしさを指摘し、高レベル放射性廃棄物に含まれる超半減期放射性元素の恐ろしさだけでなく、民生用プルトニウム核兵器転用可能性も肯定したからです。あれだけ事実を提示しても、いまだに再処理工場がなくなったあとの地域振興策を問題にしている青森県民の危機感の欠如を嘲笑われているような気がしたのは私の僻みでしょうか。六ヶ所のリスクに比べたら、川内原発玄海原発の再稼働のリスクなど大したものではないと言いたげでした。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言105です。
 可惜中国太难改变了,即使搬动一张桌子,改装一个火炉,几乎也要血;而且即使有了血,也未必一定能搬动,能改装。不是很大的鞭子打在背上,中国自己是不肯动弹的。
 Kěxí zhōngguó tài nán gǎibiànle, jíshǐ bān dòng yī zhāng zhuōzi, gǎizhuāng yīgè huǒlú, jīhū yě yào xuè; érqiě jíshǐ yǒule xuè, yě wèibì yīdìng néng bān dòng, néng gǎizhuāng. Bùshì hěn dà de biānzi dǎ zài bèi shàng, zhōngguó zìjǐ shì bù kěn dòngtán de.
 残念ながら、中国では変革がきわめて容易ではありません。机をひとつ動かすとか、ストーブをひとつ取り替えるのですら、血を流さずにはおさまらないといった風であります。しかも、血を流したとしたところで、動かしたり、取り替えしたりすることができるとはきまっていません。物凄く大きな鞭が背中をひっぱたいてもしないかぎり、中国は自分では動こうとはしません。