魯迅箴言日記 2019/10/8 行く秋の我に神無し仏無し

 今日は10月8日、GEAの移転の手続きをすませたら、明日からは県民エナジーの仕事もできるだけ古川2丁目の事務所ですることにします。輝代さんの体調も一進一退です。痛みやしこりもあるようですが、いまはそっとしておきたいと思います。今日も5時に起きて、プルトニウム研究、漱石「心」写読、子規歳時、魯迅箴言論語読解と朝の日課をやっています。夜は、小説執筆と資本論読解と岩井「貨幣論」研究とやることがたくさんあって、時間が経つのが惜しくてなりません。昨夜は、資本論を読み返していて、2017年につけた自分の註がなつかしくて、2年前のことが思い起こされました。

 

 今日の子規歳時は、明治28年子規が今出からの帰途、車上で詠んだ句です。「病牀六尺」には、「宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない」と書き、信ぜぬものに神の救いも及ばす、南無阿弥陀仏で日は暮らせないと詠んだ句です。

 

 今日の魯迅箴言は、箴言264です。

 纵令不过一洼浅水,

    也可以学学大海;

    横竖都是水,

    可以相通。

 たとえ浅い水たまりに過ぎなくても、

 大海を学ぶことはできる。

 いずれにせよ、どちらも水なのだから、

 あい通じるはずであるから。