魯迅箴言日記 2020/07/24 とも綱に蜑の子並ぶ游泳かな

 今日は7月24日、金曜日です。最近は、二階の部屋で眠っています。かつて長男が使っていて、長男が立教へいってからは、次男が使って、そこから早稲田に行き、そのあと三男が法政に行くまで使っていた六畳間です。二階には、仏間、私の書斎、それにトイレと流しもあります。西は全面窓ガラスで結構明るい部屋です。三人の息子たちの中学、高校時代の思い出が詰まっている部屋で眠るとなにか若返った気がします。天井には、次男の手によるイチローと斎藤雄樹投手の大きなポスターが貼ってあり、壁にも長男と次男の高校野球青森県大会のペナントが何枚も張ってあります。三男は野球をやめ、馬と音楽に走ったので、高校野球関連のものは残っていません。

 

 今日の子規歳時は、「とも綱に蜑の子並ぶ游泳かな」(明治25年)です。明治23年の7月24日、子規は河東静渓らと三津の海岸に海水浴に行っとあります。ここで、蜑とは、あま【海人・蜑】(「あまびと(海人)」の略か)、①海で魚や貝をとり、藻塩などを焼くことを業とする者。漁夫。記下「鮪(シビ)突く―よ」、②(「海女」と書く) 海に入って貝・海藻などをとる女性。季・春。「真珠取りの―」のことです。

 

 今日の魯迅箴言は、箴言365日の59日目「私がみたところ中国の多くのインテリたちは、」です。

 (原文)

  我看中国有许多知识分子,

       嘴里用各种学说和道理,

       来粉饰自己的行为,

       其实却只顾见的,

       凡有被他遇见的,

       都用作生活的材料,

       一路吃过去,

       像白蚁一样,

       而遗留下来的,

       却只是一条排泄的粪。

 (拼音)

  Wǒ kàn zhòng guó yǒu xǔduō zhīshì fēnzǐ,        
  zuǐ lǐ yòng gè zhǒng xuéshuō he dàolǐ,        
  lái fěnshì zìjǐ de xíngwéi,        
  qíshí què zhǐgù jiàn de,        
  fán yǒu bèi tā yùjiàn de,        
  dōu yòng zuò shēnghuó de cáiliào,        
  yīlù chī guòqù,        
  xiàng báiyǐ yīyàng,        
  ér yíliú xiàlái de,        
  què zhǐshì yītiáo páixiè de fèn.

 (訳文)

  私がみたところ中国の多くのインテリは、

  口先ではいろんな学説や道理を用いて、

  自分の行為を粉飾しますが、

  実はただ一個の便宜と快楽しか考えていないのです。

  自分の出会ったものを、何もかも手当たり次第、生活の材料にし、

  シロアリのようにどんどん喰ってしまいます。

  あとに残ったものは、シロアリが排泄した糞だけです。