今日は7月25日、土曜日です。今日は三日分のブログの更新を午前中にやりました。魯迅は、中国の北方人は重厚だが愚かで、南方人は機敏だけれど狡いと評しています。日本でもこれに同じ事がいえるようです。北海道や東北の人間は、たしかに重厚ですが、愚鈍なところがあります。これに対し、関西から九州にかけてのひとは、たしかに機をみるに敏ですが、狡賢いのです。安倍は長州、小池は西宮の人であることを忘れてなりません。いまこそ、愚鈍で重厚な北方人が日本を救う時のような気がします。
今日の子規歳時は、「薫風や大文字を吹く神の杜」(明治30年)です。松山の井出神社の天神祭には、大文字という大字を清書してあげると手が上がるというので子規も少年のころ大字を書いて奉納したようです。境内の縄張りのつるし書道展を詠んだものです。
今日の魯迅箴言は、箴言365日の60日目「わたしも嘗てはいまの青年たちと同じように、」です。
(原文)
我也曾有如现在的青年一样,
向已死和未死的导师们问过应走的路。
他们都说;
不可向东,或西,或南,或北。
但不说应该向东,或西,或南,或北。
我终于发见他们心底里的蕴蓄了;
不过是一个”不走”而已。
(拼音)
(訳文)
私もかつてはいまの青年たちと同様に、
すでに亡くなった、あるいはまだ亡くなっていない指導者たちに歩むべき道を訊ね
たものだ。
彼らはみなこういった。
東、あるいは西、もしくは南、あるいはまた北に向かってはならないと。
しかし、決して、東あるいは西、南あるいは北へ向うべきだとは言わなかった。
そして私はようやく彼らの腹の底にある「蘊蓄」を見出した。
それはただ、「行くな」ということだけだった。