魯迅箴言日記 2022/01/04 新宅に掛くる釘なし初暦(明治29年、1896年)

 今日は1月4日、火曜日です。相変わらず、青森は雪にとざされています。今日から仕事始めで、三鷹に戻ったはずの娘たちからは連絡がありませんが、少し心配しながら朝を迎えました。とりあえず日課をやって、11時に神田歯科に行きます。年末と今日の2回の治療で歯茎の手入れと歯垢の取り除きと入れ歯の洗浄を終え、あと4カ月後の検診となりました。新たな虫歯はなく、下の歯の入れ歯を毎日取り替えて使うことになりました。歯科の主治医が近所に居るのは助かります。年賀状を120枚ほど差し出し、北狄の同人への郵送も終えることができました。明日は、新聞社等への発想です。成田本店へは7日くらいに行くつもりです。合評会は1月21日(金曜日)午後6時からせんなりです。山内さんから、市長選挙についての長い電話がありました。

 今日は、御用始めのため、社民党、連合、自治労、平和労組へ挨拶に行き、事務所へ升田さんが見えました。東奥の畑中記者も挨拶に見えました。

 今日の子規歳時は、「新宅に掛くる釘なし初暦(明治29年、1896年)」です。

 子規は明治26年の正月から根岸の新宅に居を構えています。

 今日の論語は、箴言130-67「運動会を見るたびに、いつも考える」です。

 我每看运动会时,常常这样想;

    优胜者固然可敬,

    但那虽然落后而仍非跑至终点不止的竞技者,

    和见了这样竞技者而肃然不笑的看客,

    乃正是中国将来的脊梁。

 運動会を見るたびに、いつも考える。

 勝者はもとより敬うべきだが、

 遅れても絶対にゴールまで駆け抜けようとする選手と、

 その選手を見ながら粛然として笑わない観客、

 彼らこそまさに中国の将来の脊梁である、と。