「世間にはいわゆる閑事など存在せず」が今日のテーマ

 今日の箴言は、「天下本旡所謂閑事」です。
 
 「天下本旡所謂閑事、
  只因為力没有这許多遍管的精神和力量、
  于是便只好抓一点呢?
  自然是最和自己相関的、・・・」
 
 すなわち、
 「世間にはいわゆる閑事(どうでもいいこと)など存在せず、
  ただあれこれ首を突っ込む力もないため、
  ある一つだけをつかまえて関わるのである。
  なぜ、その一つなのか?
  それが自分と、もっとも関わりが深いから・・・」
 
 この箴言とは直接関係があるわけではないが、今日、アウガに買い物に行って女房と喧嘩した。それは雪片付け戦争のことである。魯迅のいうように、「世間にはどうでもいいことなどひとつもない」のである。
 私はこれまで浪館の家に来てから喧嘩した。隣近所と喧嘩したことはなかった。ただ、白い目でみられていたのだけは間違いがない。ただ、おふくろが生きていたことはたいした問題はなかった。おふくろは朝早くから、夜まで必死で、玄関先から、車庫前まで、ときには、書庫の屋根の雪まで、見ていて危ないと止めたくなるほど、隣近所に負けないくらいに雪かきに精を出した。
 7年前におふくろが亡くなり、雪の重みがどっと私と女房にのしかかることになった。もとより私は、「春まで解けなかった雪はない。人生に一度くらい、一年中雪の中に埋まって生活してみたい」と豪語して、一家の大黒柱は雪かきのことなど眼中にないと一蹴してきた。
 家事の中でも、とりわけ掃除片づけが苦手な女房は、ご多分に漏れず雪片付け・雪かきが好きではなかった。玄関先はともかく、車庫の雪が凍り、氷柱が剣のように伸び、歩く者を脅威に陥れて、郵便局員が「氷柱が落ちてきそうで、怖くて配達できない」と尿女房に抗議したほどだった。
 中国から戻り、定職のない身となった私は、朝に家人の要請があれば送迎の運転手をつとめることとなった。それと、車庫からの車の出し入れのために雪かきをする任務をもつことにした。「春まで待て」なくなったのである。自説もときには曲げなければならない。
 最低限、自分の家の周りの雪かきをするようになると、近所のことにも気を配れるようになった。まさに、「世間にはどうでもいいようなことなど、何ひとつない」のである。
 道路を挟んだ斜め向かいの家には、脳卒中で半ば寝たきり主人とその妹で長年北海道で町立病院の看護婦を勤めて定年になって戻ってきた老女が住んでいる。老人の子や孫は独立して、家には老人兄妹だけがすんでいる。老人の面倒をみていた夫人は三年前、突然、心臓の病で老人より先に死んだ。
 老人の家の玄関前の雪は、斜め向かいの家の主人が自分の家の雪かきのついでに片付けてくれている。元警察官の男を私は尊敬の眼でいつも眺めている。皆、自分の家の雪かきで精一杯なのに、他人の家の面倒までみてくれているからである・。
 私の家から南に50メートルほどのところに西滝川が流れ、その川が雪捨て場になっている。私や同じ並びの隣の家では、自分の庭に雪をまとめている。庭木の雪囲いをしないため、猫の額の庭におふくろが植えた木は春には無残な姿をさらすはめになる。隣の家は塀代わりの庭木は雪囲いをし、真中はゴルフの練習用に芝生を植えているから雪の捨て場に困ることはなかった。それでも、雪片づけを天職とするかのように、隣の主人も橇に雪を積み川まですてに行く。
 「おはよう」「また降りましたね」「こう雪が多くっちゃ、こっちの体がもたない」などと声を交わす。つくづく、歳をとったなあ、と実感するのだ。
 魯迅が言うとおりだ。「たかが雪、されど雪、どうしても雪」で、それが目下の近所の最大の関心事なのだ。