戊戌の政変から辛亥革命まで

イメージ 1  中国での教え子の卒論のテーマに「戊戌変法と明治維新」を選んだ四年の女子学生がいた。彼女は歴史が好きで、日中の比較政治史を専攻するために大学院志望であった。同じ長春にある東北師範大学に進学することを目標にしていた。
 中国では変革とか政変のことを「変法」というと彼女に教えてもらったが、「戊戌の政変」については高校の世界史でかすかに習ったような記憶しかなく、それがどうして「明治維新」とつながるのか少し興味もおぼえた。彼女いわく、戊戌の政変が明治維新と同じく成功していれば、今日の中国もまた違っていたかもしれないというのだ。
 帰国して、中国と日本の歴史にあらために関心をもつようになり、高校の世界史の教科書を探しだし、埃をはらいながらその個所を読んでみた。とくに、戊戌の政変から辛亥革命の件までを紹介しよう。
 「戊戌の政変;アヘン・アローの2戦争に中国が相次いで敗れると、曽国藩・李鴻章らは西洋の機械・技術を輸入して、中国の富国強兵をはかった。しかしその効果はあがらず、清仏・日清戦争で再び敗れたことにより、中国の一部知識人は、単に文明のみでなく政治制度にも西洋から学ぶべきものがあると考えて立憲運動(変法自強の運動)を起こした。この中心人物は康有為で、1898年、年少の光緒帝を動かして、諸政の革新を断行しようとした。しかし保守的な廷臣たちは光緒帝の伯母西太后を中心にクーデタをもって、康有為らを失脚させたため、この新政は、わずか3カ月で終わった。これが戊戌の政変で、以後保守排外派が清朝の政治を左右した。しかし清朝義和団事変に失敗してからは、ようやく保守排外主義を守り得ぬことをさとり始めた。
 革命勢力の増大;外国資本の進出によって、中国には諸種の軽工業港湾都市を中心に起こり、これに刺激されて中国人の投資による興行もおこり始めた。こうした民族資本は紡績業を中心に発達したが、民族資本の発達に対する最大の障害は、外国の勢力と清朝専制的支配であった。さらに外国に出稼ぎに行っていた中国人、いわゆる華僑も海外の形成に目覚め、中国人による中国の支配をのぞんでいた。このような情勢の中から、さきに国政改革・富国強兵を叫んだ進歩派官僚とは別に、清朝による中国支配体制を打破し、直接中国人の民族国家をつくろうとする革命派が力を増してきた。この革命運動ははじめ統一がなかったが、やがて孫文によって指導された興中会が中心となり、中国革命同盟会を組織して、孫文の唱えた三民主義にのっとり、民族の独立・民権の伸長・民生の安定を標語に、国内だけでなく海外華僑にも呼びかけて、組織的な革命運動を展開した。
 辛亥革命;このような情勢に対して清朝では、憲法を制定し、議会を開いて民意を入れることを約束して、情勢緩和につとめるとともに、近代的な軍隊の訓練を行い、権力の維持をはかった。しかしこのよな施策が、中国人の反清感情をそらし列国の歓心をかいながら、満洲貴族による中央集権化をはかるものであることが明らかになると、人心はまったく清朝をはなれてしまった。こうして1911年政府が幹線鉄道の国有を計画し、資金を外国に仰ごうとすると、民の利を奪って外国に与えるものであるとしてまず四川に暴動がおこり、これが各地に波及した。これに乗じて10月10日武昌の軍隊が革命の旗をあげると、革命軍は各地でこれに応じ、わずか1カ月後には全国の3分の2が革命軍の占めるところとなり、1912年1月革命軍は孫文を迎えて南京で中華民国の建国を宣言した。これが辛亥革命である」
 2011年はちょうど、1911年10月10日に辛亥革命が成功してからちょうど100周年にあたる。中国では今日においても、建国の父として、毛沢東とならんで孫文が高く評価されている。昨年7月、中国を訪問し、南京をたずねて、そう思った。日本では1867年明治維新がなされ、1898年の戊戌の政変の失敗から、14年後の辛亥革命であった。
 こうして1912年、宣統帝が退位して清朝は亡び、中華民国が誕生した。この宣統帝がのちに、日本(軍部)によって1932年にうちたてられた満州国の皇帝(溥儀)になって、新京(いまの長春)の皇宮で即位したのはまさに因縁を感ずる。満洲族清朝が、瀋陽から北京に遷都され、孫文らの革命軍によって滅ぼされ、最後の皇帝・宣統帝が後年、満州国の皇帝として新京で即位するのだから歴史は重要であるとともにおもしろい。
 写真は清朝の最初の故宮瀋陽)である。