今日の論語一日一章「加我數年、五十以學易、可以無大過矣」

 今日は7月22日、月曜日です。参議院選挙は終わり自民の圧勝に終わりました。昼前から雨が降っています。今日は一日、家に蟄居するつもりです。

 今日の論語一日一章は、第7篇「述而第七」の第16章「加我數年、五十以學易、可以無大過矣」(我に数年を加して、以て易を学ぶことを卒へしめば、以て大過なかるべす。)です。
 原文はこうです。
 「子曰、加我數年、五十以學易、可以無大過矣。」
 読み下し文はこうなります。
 「子曰はく、我に数年を加して、以て易を学ぶことを卒(を)しへしめば、以て大過なかるべし、と。」
 ここで、中国語簡体表記はこうです。
 「子曰,加我数年,五十以学易,可以无大过矣。
  Zǐ yuē, jiā wǒ shù nián, wǔshí yǐ xué yì, kěyǐ wú dàguò yǐ。」
 この章の日本語訳はこうなります。
 「孔子が曰はれた。もし天がわしに数年の命を与えて易を学ぶ仕事を卒(お)えさせるならば、天地間の一切の道理を研究し尽くすことができて、大きな過ちをしないようになるであろう、と。」
 また、語句・語彙の解説はこうです。
 加す;仮(か)すと解します。仮し与えることです。
 五十;「卒」という字の謝りであろうということですから、通釈には卒の字として解釈しました。
 易;書物の名であります。天地間の一切の事物の変化の理を知ることが出来る書物であります。
 この章は、孔子が易を学んで心に悟る所があって言われたのです。
 朱子は、彼の妻の父の劉勉之が「嘗て他の論語を見たのに、『加』が『仮』になっており、『五十』は『卒』になっている。加は仮と音が似ているから誤読したのだろうし、卒は五十と形が似ているから誤って分けたのであろう。」といった語を引いて、史記にはこの章の所が、「『我に数年を仮せ、是の如くならば、我易に於いては則ち彬彬たらん』とあります。『加』の字は『仮』になっていて、『五十』という字はない。思うに、この時孔子はすでに七十歳近くになっているのだから、『五十』という字の誤りなのは明らかである。」といっている。ここでの解釈は朱子の説に従ったものです。