8月23日、日曜日です。

 8月23日、日曜日です。携帯電話の電源が入らなくなりました。直しにいかなくてはなりません。機械に故障はつきものですが、つながらないとやはり不便です。

 さて、今日の子規歳時は、
 読みさして月が出るなり須磨の巻 (1895年、明治28年8月23日)
 源氏物語は子規の学生時代からの愛読書でした。保養院時代も、「灯火青く夜更けにし頃、寝転んで静かに」須磨明石の巻を読みふけっていたようです。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言43です。
 暴露者揭发种种隐秘,自以为有益于人们,然而无聊的人,为消遗无聊计,是甘于受欺,并且安于自欺的,否则就更无聊赖。
 因为这,所以使戏法长存于天地之间,也所以使暴露幽暗,不但为欺人者所深恶,亦且为被欺者所深恶。
  BBàolù zhě jiēfā zhǒngzhǒng yǐnmì, zì yǐwéi yǒuyì yú rénmen,
  rán'ér wúliáo de rén, wèi xiāo yí wúliáo jì, shì gānyú shòu qī,
  bìngqiě ān yú zì qī de, fǒuzé jiù gèng wúliáo lài。
 Yīnwèi zhè, suǒyǐ shǐ xìfǎ cháng cún yú tiāndì zhī jiān,
 yě suǒyǐ shǐ bàolù yōu'àn bùdàn wèi qī rén zhě suǒ shēn wù,
 yì qiě wèi bèi qī zhě suǒ shēn wù.
「暴露者とは、自分では人にとって有益だと思って、あらゆる秘密を暴露する、しかも、そうしたはかりごとによって、自らも欺かれ、自分をも欺くことによってしか、暇をつぶすことができない、つまらない人間のことなのだ。このため、この世界に長く存する手品のような技法をつかって、人を欺く者の凶悪さだけでなく、欺かれた者の凶悪なところまで、暴露してしまうものなのです。」

 今日の論語一日一章は、論語10-4(論語巻第五 郷黨第十篇 4章)です。
 入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位色勃如也、足躩如也、其言似不足者、攝齊升堂鞠躬如也、屏気似不息者、出降一等、逞顔色怡怡如也、沒階趨進翼如也、復其位踧踖如也、
 Rù gōngmén, jūgōng rú yě, rú bùróng, lì bù zhòng mén, xíng bù lǚ yù,
 guò wèi sè bó rú yě, zú jué rú yě, qí yán shì bùzú zhě,
 shè qí shēng táng jūgōng rú yě, píng qì shì bù xī zhě,
 chū xiáng yī děng, chěng yánsè yí yí rú yě,
 méi jiē qū jìn yì rú yě, fù qí wèi cù jí rú yě,
(入公门,鞠躬如也,立不中门,行不履阈,过位色勃如也,足躩如也,其言似不足者,摄齐升鞠躬如也,屏气似不息者,出降一等,逞颜色怡怡如也,没階趋进翼如也,复其位踧踖如也,)
「公門に入るに、鞠躬如たり。容れられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾を履まず。位を過ぐれば、色勃如たり。足躩如たり。其の言うこと、足らざる者に似たり。斉(し)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るに、躩躬如たり。気を屏(おさ)めて息せざる者に似たり。出でて一等を降れば、顔色を逞(はな)って怡怡如たり。階を没(つく)せば、趨(はし)り進むこと翼如たり。其の位に復(かえ)れば踧踖如たり。」
(宮城の御門を入るときは、おそれ謹んだありさまで、体が入りかねるようにされた。門の中央すじには立たず、敷居を履まないで通られた。主君のお立ちになる場所を通り過ぎるときは、顔つきは緊張され、足取りはそろそろとされた。そのことばづかいは舌足らずのようであられた。裾を持ちあげて堂に上がられるときは、おそれ謹んだありさまで、まるで息をしないもののように息づかいをひそめられた。退出して一段おりられると、顔色をほぐされて安らかになられ、階段を降りつくすと、小走りに進まれるのにきちんと立派であった。自分の席に戻られると、うやうやしくされた。)